第11話 白昼の狩りは、夜から始まる
森の夜が、後ろから剥がされていく。
じわじわと、白い灯りが木々の間を舐めるように広がり、闇を「なかったこと」にしていく。
月明かりなら斑になるのに、あれは違う。均一な白だ。逃げ道のない白。王都の白日と同じ種類の光。
葉の裏が白くひっくり返り、幹の苔が銀色に光り、夜露が小さな刃物みたいにぎらつく。
森の匂いすら薄くなる。光が匂いを殺すみたいに。
「……白日の術。ほんとに使ってくるなんて」
エレナが吐き捨てた。
声は小さいのに、歯が噛み合う音がする。怒っているときの音だ。
グリムが前を走りながら言う。
「影を殺せば、森はただの“広い空き地”だ。あいつらは森を森として見ちゃいねぇ。狩場として見てる」
狩場。
その言葉が胸に刺さる。
(私は、獣みたいに追われてる)
追われること自体は怖い。
でも、もっと怖いのは――追われる私は、いつのまにか「逃げる側」に慣れてしまうことだ。
逃げる癖は、黙る癖と同じで、身体に残る。
残る癖は、私をまた殺す。
私は息を吐いた。吐いて、喉を開く。
開いた喉で、自分に言う。
「……止まらない」
声は掠れている。でも声だ。
声があるだけで、私は自分の足を信じられる。
肩の上でクロが、白い灯りを見て羽を逆立てた。
「カー……白いの、腹立つ。目が痛い」
「うん。私も」
「カー……あれ、昼じゃない。偉そうな昼」
「表現が雑すぎる」
「カー! 雑でも当たってる!」
当たってるのが悔しい。
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白い灯りの向こうから、角笛の音が聞こえた。
ぶおお――と、低く長い音。
森の奥まで染みる音。獣の心臓を止めるための音。
続いて、鎧の擦れる音が混じる。
人の数が多い。足音が一つじゃない。列が複数に分かれている。
「……包囲、完成し始めてる」
エレナが言った。
私が《真言の鏡》の欠片を握り、視界を暗くすると――糸が見えた。
森の中に、灰色の糸がいくつも走っている。
一本一本は細い。けれど束になると、網だ。網は逃げ道を塞ぐ。
さらに、その網を“持ち上げる”ように、白い糸が上から垂れている。
白い糸は清らかな白じゃない。冷たい白。照らすというより、晒す白。
(光そのものが、糸になってる)
「見える?」
エレナが振り返らずに聞いた。
私は頷いた。頷く余裕があるのは、声が戻ったからだ。
戻った声のぶんだけ、私は現実を数えられる。
「白い糸……上から。灯りの中心に結び目がある」
「……術者がいる」
エレナが即答する。
「術者を潰せば、夜が戻る」
潰せば。
言葉が重い。重いのに、必要な言葉だ。
グリムが短く言った。
「下だ。地面の下へ潜る」
私たちは沢から外れ、斜面を駆け上がった。
湿った土が靴底に絡む。根っこが足を掴む。
転びそうになって、私は息を止めかける。
吐け。
吐く。
吐くと、足が前へ出る。
森で覚えた“生きる手順”が、身体に染みてきている。
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白い灯りが、背中に触れた。
触れた瞬間、森の暗がりが剥がれて、世界が急に明るくなる。
明るい。明るすぎる。
目の奥が痛くなって、昔の白い広間がよみがえる。
「毒婦」
「婚約破棄」
「動くな」
声が、喉を締める。
私は反射で目を細めかけた。
――やめろ。
目を細めるな。
目を逸らすな。
息を吐け。
私は息を吐いた。吐いて、前を見る。
前を見た瞬間、木々の影の間に“白い布”が揺れているのが見えた。
白い外套。
聖堂騎士。
白い布が揺れるたび、白い灯りが強くなる。
そしてその白の奥に、金属のきらめき――槍先。
槍先は光を拾って、ぎらりと笑う。
「見つけたぞ!」
声が上がった。
次の瞬間、矢が飛んだ。
ひゅっ、と空気が裂ける音。
矢は木の幹に刺さり、ばき、と木片が飛ぶ。
飛んだ木片が頬を掠めて、痛い。
痛いのに、頭が冴える。
(白日と同じだ)
(白い光は、私を動けなくするためにある)
でも私は動く。
動ける。
喉が私のものだから。
「左!」
私は叫んだ。
声が出た。
自分の声でグリムとエレナを動かせたのが、嬉しい。嬉しいのに、状況が最悪すぎて笑えない。
グリムが即座に方向を変えた。
「ついて来い!」
前方に、岩肌が露出した場所があった。
そこに、黒い裂け目。
洞穴――いや、古い坑道だ。
崩れた石積み、錆びた鉄の輪、湿った冷気。
人が掘った穴の匂いがする。
「入れ!」
私たちは滑り込んだ。
外の白い灯りが、入口で止まる。
白い光が穴の奥へ届かない。
闇が、ここだけ濃い。
胸の奥が少しだけ緩んだ。
――影が生きている。
でも、安心は長く続かなかった。
入口の外から、犬の吠え声が響いた。
「ワンッ!」
獣の声が、坑道の中で増幅されて、耳の奥を殴る。
続いて、男の声。
「穴だ! 松明を!」
火。
火が来る。
火は闇を殺し、証拠を食い、匂いを隠し、全部を「なかったこと」にする。
エレナが息を吐いた。
「……ここで捕まると終わり」
「終わらせねぇ」
グリムが低く言う。
「リーゼ、鏡で糸を見ろ。出口を探せ」
私は欠片を握り、視界を暗くする。
暗い坑道の中で、糸が浮いた。
……前方に、細い風の糸。
外へ繋がる裂け目がある。
でもそこへ向かう途中、白い糸が一筋、入口から伸びてくる。
白い糸は、松明の火ではない。
外の白日術が、ここへ“触手”を伸ばしてきている。
(入ってくる……?)
不安で喉が縮みかけて、私は息を吐いた。
吐けば、冷静になる。
入口に、松明の火が差し込んだ。
橙の光が、坑道の壁を舐める。
橙の光は優しいはずなのに、今は獣の目みたいにこちらを探している。
外套の男が顔を突っ込んだ。
白い外套の下に、鎖帷子のきらめき。
手には松明。腰には剣。
男の背中に、白い糸が結びついているのが見えた。
術者の糸。
こいつらはただの騎士じゃない。白日術の“端末”だ。
(……切れるのか?)
鏡の欠片の縁が、指先に刺さる。
冷たい痛みが現実を固定する。
私は、白い糸へ欠片の縁を近づけた。
近づけた瞬間――欠片が、ひやりと冷たく震えた。
嫌がっている。
嫌がっているのに、私は押し込む。
ぷつん。
切れた。
同時に、外の松明の炎がふっと揺らぎ、男の顔が一瞬だけ青白くなった。
白日術の“補助”が切れたのだ。
「なっ……!」
男が驚いた瞬間、クロが飛んだ。
「カーッ!!」
狙うのは目。
くちばしが目尻を裂き、男が悲鳴を上げて顔を覆う。
その隙に、グリムが前へ出た。
杖で男の手首を叩く。
鈍い音。松明が落ち、火が石に当たって火花が散る。
グリムの短い刃が、男の太腿を斜めに切った。
布が裂け、肉が裂ける感触。
赤が滲み、男が膝をつく。
血の匂いが濃くなる。
鉄の匂いが喉を刺激して、吐き気が来る。
でも私は吐かない。
吐いたら固まる。固まったら死ぬ。
(生きる)
(生きて、残す)
エレナが素早く誓写紙を広げ、男の顎を布で拭った。
「所属」
「聖……っ、聖堂騎士団……」
誓写紙の銀が一瞬、光る。
「術者は誰」
男が唾を吐いた。
「知ら――」
誓写紙の端が黒く滲む。
エレナの声が落ちる。落ちた声は刃より怖い。
「あなた、白日術の糸を繋いでる。知らないはずがない。……名前か、役職。どっちでもいい」
男の目が揺れた。
揺れるのは、生き残りたい目だ。
「……レグナード卿……」
「回収局の?」
「……っ、そうだ……!」
誓写紙の銀が、細く強く光った。
真実は派手じゃない。でも確かに増える。
胸の奥の泥が、ぐつり、と煮えた。
レグナード。
また出た。
そして“卿”。ただの回収屋じゃない。貴族階級の肩書きを持った人間だ。
(王都は本気だ)
(ミレイユは、本気で私の喉を潰す)
エレナが封蝋を押し、紙を懐へしまう。
「これで一つ、首根っこを掴んだ」
その瞬間、坑道の外で角笛が鳴った。
ぶおお――。
さっきより近い。数が増えている。
グリムが舌打ちした。
「長居はできねぇ。出口だ、リーゼ!」
「……こっち!」
私は鏡で見えた風の糸の方向へ走った。
坑道の床は濡れて滑る。転びそうになる。
でも息を吐く。吐いて、足を出す。
裂け目は狭かった。
岩と岩の間に、身体がぎりぎり通る程度の隙間。
冷たい風が頬を撫でる。外の匂いがする。
「先に行け!」
グリムが背中を押す。
エレナが最後に振り返った。
入口から、松明の火がいくつも増えている。
白い外套が増えている。
白い光が、坑道の闇を押し潰しに来ている。
私たちは裂け目を抜けた。
---
外に出た瞬間、空が白かった。
夜明けじゃない。
白日術の白が、森の上に広がっている。
星は消え、月も薄くなる。
森が“昼”に塗り潰される。
その白の中で、煙が見えた。
――橙色の煙。
遠く、丘の向こう。
修道院の方角だ。
煙が細く上がり、白い光に溶けて、でも消えない。
胸が、ひゅっと冷える。
「……火」
エレナが低く言った。
声が震えていないのが、逆に怖い。
「修道院に火を回した」
グリムが吐き捨てる。
「証拠を燃やす気だ」
ロッテ。
修道女たち。
書記室の紙束。
封蝋の印章。
(……私のせいだ)
罪悪感が胸の奥を噛む。
噛まれると、足が止まりそうになる。
止まったら、追いつかれる。止まったら、全員が死ぬ。
私は息を吐いた。吐いて、喉を開く。
開いた喉で、言った。
「……戻れない」
言った瞬間、自分の残酷さに胸が痛んだ。
でも、これは残酷じゃない。順番だ。
生き残る順番。
エレナが私を見て、頷いた。
「戻らない。――ロッテは走った。あの子は、残す方へ走った」
「信じる」
私は言った。
「……信じるしかない」
グリムが前を指した。
「来るぞ。匂いが変わった」
匂い。
確かに、空気が油っぽい。
松明の火じゃない。もっと重い匂い。
火を“広げる”ための匂い。
(……焼き払うつもりだ)
白い光で影を殺し、火で森を舐める。
私たちを獣みたいに追い込んで、最後に囲って回収する。
そのとき、森の向こうから声が響いた。
「リーゼ・フォン・アスター」
聞き覚えのない男の声。
でも、背筋を撫でる冷たさがある。
礼儀正しいのに、人を物として呼ぶ声。
白い光の境界線――森が昼に変わる線の向こうに、人影が立っていた。
白い外套。
手には銀の杖。
その杖の先に、白い灯りの結び目が集まっているのが見えた。
白い糸が無数にそこへ結ばれて、森の夜を吊り上げている。
(術者)
男が、微笑んだ。
「お戻りください。あなたは“回収対象”です」
言葉が丁寧で、丁寧だからこそ吐き気がする。
エレナが低く唸った。
「……レグナード」
名前が出た瞬間、男の微笑みがわずかに深くなった。
名を呼ばれるのが嬉しいのではない。
名を呼ばれたことが「支配が届いている」証だからだ。
レグナードが杖を軽く振る。
白い光が、さらに強くなる。
木の影が薄くなり、私たちの影が地面から剥がされる。
影が剥がれると、私の心がざわつく。
白日の広間の記憶が戻る。喉が狭くなる。
私は息を吐いた。吐く。吐く。吐く。
吐けば、喉は私のものだ。
私は、まっすぐレグナードを見た。
目を逸らさない。
逸らしたら、負ける。
レグナードが言った。
「あなたの喉は、随分うるさくなった」
「……黙らせたい?」
私は自分でも驚くほど冷たい声で返した。
「残念。もう、黙らない」
言い切った瞬間、枷がじん、と鈍く痛んだ。
熱じゃない。古い傷が疼く痛み。
それでも私は立っている。
レグナードが、笑った。
「いいですね。……うるさいものほど、回収しがいがある」
その言葉の終わりと同時に、背後で火の匂いが濃くなった。
振り向くと、白い灯りの外側――森の端で、火がいくつも上がっていた。
火が、風に舐められて走り始める。
前は白日。
後ろは火。
横は包囲の足音。
逃げ道が、細くなる。
グリムが私の背中を叩いた。
「リーゼ。今だ。――選べ」
選ぶ。
生き残る順番を、選ぶ。
私は鏡の欠片を握りしめた。
冷たい。
冷たいのに、指先が熱い。
血の温度が、まだ残っている。
(逃げるだけじゃ終わらない)
(でも、今は生きる)
私は息を吐いた。
吐いて、足を踏み出す。
――白昼の狩りは、ここから本番だ。




