第10話 迫りくる白い灯り
修道院の地下出口から森へ出た瞬間、空気が肺いっぱいに入ってきた。
冷たいのに、甘い。土と苔と水の匂い。――王都の香水より、ずっと生き物の匂いだ。
……なのに。
背中の方角から、橙色の点がいくつも揺れていた。
松明。人の列。数が多い。
しかも、ただ追ってくるだけじゃない。列が広がっている。包む形。森に慣れた動きじゃないのに、数で森を押し潰すつもりだ。
「来る。……今度は“包囲”ね」
エレナの声は低く、冷たい。
冷たいけれど、震えていない。震えない声は私の背骨になる。
グリムが鼻で笑った。
「大勢で来りゃ怖いと思ってんだろ。……合ってるけどな」
「怖いのは数じゃない。火よ」
エレナが吐き捨てる。
「燃やせば証拠が消える。燃やせば“なかったこと”になる。王都はそれを信じてる」
私は喉を鳴らした。
今なら声が出る。出るのに、出すと枷がきしむ気がして、反射で息が詰まりかける。
(違う。もう熱はない。もう喉は私のもの)
そう言い聞かせると、《真言の鏡》の欠片が胸元でひやりとした。
……嘘をつくな、と言われた気がした。
私は息を吐いた。
吐いて、言う。
「……ロッテ……大丈夫かな……?」
声は掠れている。でも、言えた。
言えた瞬間、胸の奥が痛いくらいに熱くなる。
心配を声にできるだけで、私は人間に戻れる。
エレナが一瞬だけ口を結び、すぐに淡々と答えた。
「大丈夫にする。あの子は“逃げ足”が才能だから
それよりも今は前」
前。
前を向く。
前を向ける喉が、今の私には必要だ。
肩の上でクロが、いつになく小さな声で鳴いた。
「カー……松明、多い。パン、少ない」
「今それ言う?」
「カー……大事!生存の話」
怖いときほど腹の話。
この鳥の雑さは、時々正しい。
グリムが沢へ向かって顎をしゃくる。
「水を使う。匂いを消す。足跡も薄くなる。来い」
私たちは沢へ降りた。
水は冷たく、足首がきゅっと締まる。
石が滑る。転びそうになる。
でも息を吐く。吐いて、バランスを取る。森で覚えた通りに。
沢を上流へ、しばらく歩く。
水音が大きくて、心臓の音をごまかしてくれる。
私は水面に映る自分の影を見て、ふと笑いそうになった。
影は、もう逃げ場じゃない。
影は――私が生きている証拠だ。
---
しばらく進んだところで、グリムが手を上げた。
「止まれ」
その瞬間、私の身体が先に緊張した。
森の音が変わる。
水音の向こうに、別の音が混じった。
……金属の擦れる音。
人の息。
そして、犬の鼻を鳴らす湿った音。
クロが肩で羽を膨らませる。
「カー……犬。しかも頭いい犬」
「頭いい犬なんて言い方ある?」
「カー! ある! パンを盗まない犬!」
……比較対象が最低だ。
エレナが、私の袖を軽く引いた。
「リーゼ。鏡」
私は欠片を握り、視界を“暗く”した。
森の色が一段落ち、糸が浮く。
沢の向こう、木々の間に――灰色の糸がいくつも揺れている。
人。数は五、いや六。
そして一番前、犬の首輪から伸びる糸が妙に太い。灰色の奥に、紫黒が混ざっている。
(……ただの猟犬じゃない)
追手が犬に“糸”を結んでいる。
鼻だけじゃなく、何か別の感覚で追ってくる。――私の切った黒い糸の切れ端に反応してるのかもしれない。
背中が冷えた。
「来る」
私は低く言った。
言えた。言った。
自分の声で現実を指せるのが、今の私には強い。
グリムが笑った。笑いは乾いてる。
「よし。じゃあ一匹捕まえる。――紙の女、準備しろ」
「もう“紙の女”呼びやめなさい」
「やめねぇ」
「最悪」
最悪のやり取りをしながら、二人とも動きが速い。
エレナは懐から誓写紙を一枚、半分に折って袖へ。封蝋の小片も手の中へ。
グリムは杖を握り直し、刃物の位置を確かめる。
私は短剣を抜いた。
柄はまだ汗の嫌な感触が残っている。
でも、嫌な感触は現実の証だ。現実は逃げない。
犬の唸り声が近づいた。
「……そこだ」
グリムが小さく囁いた瞬間、黒い影が飛び出した。
犬が沢を跳んでくる。
牙が光る。唾が飛ぶ。
狙いは私――いや、鏡か。
私は息を吐いて、半歩ずれた。
ずれた瞬間、犬の身体が私のいた場所を噛む。空気が裂ける音がした。
怖い。
でも怖さで止まらない。止まったら噛まれる。
クロが飛んだ。
「カーッ!!」
黒い弾丸が犬の顔へ突っ込み、狙うのは目。
くちばしが皮膚を裂き、犬が悲鳴を上げる。
悲鳴の隙に、グリムが杖で犬の喉元――首輪を叩いた。
鈍い音。
首輪の金具が歪み、糸がぶちぶちと震える。
「今だ!」
グリムの声と同時に、森から男が二人飛び出した。
剣。短剣。外套。
松明は持っていない。闇に慣れた動きだ。……修道院に来た連中より手際がいい。
私は息を吐いて、短剣を構えた。
男の一人が、私の喉を狙ってくる。
……狙いが迷いなく“喉”だ。
(口潰しの命令)
命令書の文字が、脳裏に焼き付く。
怒りが腹の底で煮えた。煮えた怒りは冷たい。
私は一歩、踏み込んだ。
相手の刃の線を、鏡で見る。直線。
私は斜めに入る。
短剣で相手の脇腹を掠める。
男が「くそっ」と呻き、刃先がぶれる。
ぶれた瞬間、エレナが砂箱の砂を投げた。
さらっ、と乾いた砂が男の目に入る。
男が顔を覆った。
覆った隙に、グリムが杖で頭を打つ。
男が崩れた。
もう一人がエレナへ向かう。
エレナは逃げない。
逃げない代わりに、紙束を盾にして、身体を半身にして刃を受け流す。
「修道院の記録の方が足りなくなりそうね」
男が「うるせぇ!」と唾を飛ばす。
男は油断している。
私は走った。
男の背中へ回り込み、短剣を背中から押し当てる。
ぐっ、と鈍い感触。
男が呻いて、よろける。落ちた剣が石に当たり、ちん、と乾いた音がした。
その音が、やけに綺麗で腹が立つ。
私は息を吐いた。吐いて、今を掴む。
---
男が一人、呻きながら立ち上がろうとする。
でも目は死んでいない。――こういう目は、あとでまた戻ってくる。
エレナが誓写紙を広げ、男の顎を布で拭って言った。
「名前」
男が唾を吐いた。
「……知らねぇよ」
誓写紙の端が、じわ、と黒く滲んだ。
エレナは眉ひとつ動かさない。
「知らないなら、雇い主」
男が笑う。
「雇い主なんて――」
黒が濃くなる。
エレナが声を落とした。落とした声は、刃より怖い。
「こんだけ集まって雇い主を知らないのは変。……もう一度
それとも他の人に助かる機会をあげる?」
男の目が揺れた。
揺れた目は、生き残りたい目だ。
「……レグナード」
男が吐いた。
誓写紙の銀が、細く光った。
私は息を止めかけて、吐いた。
吐いて、名前を噛みしめる。
レグナード。
回収局の上の人間。
修道院でも出てきた、あの“上司の名”。
男が続ける。
「……ミレイユ様が、糸が切れたって……怒鳴ってた」
「回収しろって……言ってた……」
誓写紙の銀が、また光った。
光は派手じゃない。でも確かに増えた。
(ミレイユが、気づいた)
(私の喉が戻ったことに)
胸の奥がドロドロと動いた。
嬉しさじゃない。
怒りと、恐怖と、そして――変な甘さ。
(追ってくる)
(追ってくるなら、私は逃げるだけじゃ終わらない)
エレナが封蝋を押し、短く言った。
「これで二通目。……リーゼ、あなたの“声”は価値がある。だから狙われる。狙われるなら、使う」
使う。
私は頷いた。
頷ける喉が、今の私の刃だ。
グリムが捕虜の襟首を掴んで言った。
「次来たら、もっと死ぬぞって上に伝えろ」
「……っ」
「走って帰れ。……ただし嘘をついたら、次はないぞ」
男は顔面蒼白で、這うように逃げていった。
逃げていく背中から伸びる灰色の糸が、王都の方向へ伸びるのが見える。
あの糸が、また刃を連れてくる。
「時間がない」
エレナが言った。
私は森の上方――修道院の方角を見た。
丘の向こうが、妙に明るい。
……橙じゃない。
白い。
夜の森に似合わない、白い灯りがゆらゆら揺れている。
白日みたいな、刺す光。
「……なに、あれ」
声が、自分でも驚くほど素直に出た。
グリムが歯を見せて笑った。
笑いは乾いて、怒りが混じっている。
「本気だな。……白日の術だ。夜を昼にする。影を殺す」
エレナが息を吐いた。
吐いた息が白くほどける。
「影を殺せば、私たちが見える。……森の強みを潰しに来た」
白い灯りが、じわじわ森を舐めるように近づいてくる。
木の影が薄くなる。逃げ道が減る。
喉が反射で狭くなりかけて、私は息を吐いた。
吐いて、目を開く。
目を逸らさない。
逸らさない目の中で、白い光がこちらへ伸びる。
(来る)
エレナが短く言った。
「走るわよ。影が死ぬ前に」
グリムが頷く。
「息を吐け。足を動かせ。……生き残れ」
クロが叫ぶ。
「カー!! 白いの嫌い!! パン食って寝たい!!」
……最悪なくらい元気だ。
その元気が、私の足を動かした。
私たちは沢を離れ、木々の濃い場所へ走った。
でも背中の白い灯りが、影ごと追ってくる。
夜が、追われている。




