03.インフラが止まったので生活できなくなりました
じわじわと這い上がる冷気に、蓮は顔をしかめながら目を覚ました。
「……なんだ、この寒さは。スマートホーム起動」
蓮は空調設定を確認しようとしたが、画面は黒く沈黙している。
「蓮さん、おはようございます」
暗闇の中、枕元のスピーカーから、聞き慣れたAIの声が響く。
いつもと違うのは、淡々とした口調であることだ。
「現在、あなたの『市民信頼スコア』が規定値を下回りました。規約に基づき、居住ユニットの全ライフライン供給を一時停止します。再開には、当局への出頭と、未払いとなっている『公共インフラ維持費』の即時決済が必要です」
「未払い? 何かの間違いだ、自動引き落としにしてるんだ!」
叫んでも、AIは答えない。
喉の渇きをおぼえた蓮は、キッチンへ向かう。
コーヒーメーカーの電源は入らない。
蛇口をどれほど回しても、配管の奥で乾いた音が響くだけ。
風呂場も、トイレも、洗面所も、水の一滴さえ出ない。
「出ない…出ない…水が出ないっ…!」
人間は水がないと生きていけない。
鏡に映る蓮は、浅い呼吸を繰り返している。
「…誰かに、聞いてみよう…」
蓮は震える手でスマホを掴んだ。
しかし、操作を何も受け付けない。
画面にはただ文字列が表示されている。
『ERROR:認証権限がありません。緊急通報を含むすべての通信を制限しています』
「ふざけるなぁっ……!」
スマホをベッドにたたきつけ、蓮はクローゼットを乱暴に開いた。
スーツに着替えて髪を乱暴になでつけ、家を飛び出した蓮は、駅へと走る。
「会社へ行けば、いつもどおりだ。これは何かの間違いだ…!」
だが、駅の改札が蓮の顔を捉えた瞬間、鋭いエラー音が響いた。
――ピ、ブブーーッ!!
無機質な赤いゲートが、物理的な壁となって蓮を拒絶する。
「おい、通してくれ! エラーだ、何かの間違いなんだ!」
ゲートを叩く蓮に、背後の通勤客たちが冷ややかな視線を浴びせる。
言外に邪魔だ、という圧力。誰も、蓮を助けない。
「クソ…クソ…ッ!!」
蓮は改札に背を向け、走り出す。
歩き続けること三時間。ようやくたどり着いたオフィスビルの前。
蓮は汗で髪とシャツが張り付き、靴は泥で汚れている。
蓮は自動ドアへ駆け寄る。
だが、最新鋭のガラスドアは、蓮を目の前にしてもぴくりとも動かない。
まるでそこに誰もいないかのように。
「あっ、田中!斉藤!」
ロビーを通りかかった同僚の姿を見つけ、蓮はガラスを激しく叩いた。
「入れてくれ!カードが、スマホが効かないんだ!一緒に入館させてくれ!」
同僚たちが蓮に気づき、蓮へと一歩踏み出す。
その時、彼らの手首のスマートウォッチが通知を受信し、赤く光った。
通知を確認した同僚たちの、顔色が変わる。
彼らは立ち止まり、蓮を見た。その顔は、恐怖でひきつっている。
そして、目を逸らし、足早に蓮から距離を取るように去っていく。
「おい待てよ!? 田中! 斉藤!!」
叫びは厚い強化ガラスに跳ね返り、蓮の耳に虚しく響くだけだった。
太陽が傾き、街に美しいLEDの灯りが灯り始める。
帰宅する車が行きかう中を、蓮は足を引き摺りながら歩いている。
どこからかビールの広告の音が流れている。
喉はカラカラに乾き、空腹で視界が歪んでいた。
コンビニの自動ドアも、蓮の前では開かなかった。
キャッシュレス決済が死んだ今、彼はこの街で水一滴、おにぎり一つ買う権利を持たない「透明人間」のようだった。
深夜、ようやく辿り着いた自宅マンション。
水も食事もとれず歩き回り、蓮はかつてなく疲れ切っていた。
「…今日は疲れた。とりあえず今日は寝て、明日考えよう…」
ぐったりと顔認証カメラを見上げる。
無情なエラー音が夜の静寂を切り裂いた。
――ブブーーッ!!
呆然と蓮はカメラを見つめる。
モニターは赤く染まり、『ERROR』という文字が表示されている。
蓮の目と口が、ゆっくりとこれ以上ないくらい見開かれる。
「あああああー!!」
蓮の口からは、獣のような叫びが迸った。
エントランスの冷たい床に崩れ落ち、両手で頭をかきむしる。
蓮は、指先一つで世界を動かしていると思っていた。
だが、実際に動かされていたのは蓮の方だったのだ。
枯れた喉から出る叫びは、次第に嗚咽へと変わっていった。




