最後の再会
御子姫は華やかでありながら威厳のある訪問着を召し、いつもと違って髪を結い上げていた。表の応接室で、奏家からの使いを待つばかりであった。
「姫様、本当に気をつけて下さいね」
ほほほ…とゆるやかに笑うばかりの御子姫に、双子は揃って口やかましく気をつけるよう繰り返していた。
「もう本当に、姫様はわかってないんだから」
「あいつの姫様を見る目つき、誰が見たっておかしいんだから」
「ありがとう、そうね、今日は街の方へ出かけるから、気をつけるわ」
そこへ頭領代理が、同じように心配事を伝えてきた。
「まじめにお聞き下さい。そういう話がなくもないんです」
普段あまりそういうことを言わない代理からも注意があった。
これはそういう心象があるというだけでなく、実際に前例があったのだろう。気をつけるに越したことはない。
奏家の車には、すでに後部座席に将隆が乗っていた。その隣に御子姫は乗り込んだ。
御子姫は十六になっていた。女の厄年は十七から十九まで、その次が三十一から三十三まで。その三年間は、穢を相手にする力が半減する。
戦に手慣れた手練れの経紋衆が三十一で軒並み引退するのと、御子姫もちょうど厄年となるのが間もなく重なる。その前に一度本腰入れて大戦を行い、穢を一掃してはどうかという話だ。
街に出て、運河から少し奥まったところにある有名な料亭に到着した。女将が出迎える。まだ先方は到着していないようだ。部屋へと案内されながら、将隆は客人の説明をした。政治家と官僚に御子姫を引き合わせるのも目的だった。
「普段の戦ではなく、大戦で総代が空席で本当に大丈夫なのか」
「そうお考えになるのは、ごもっともでございます」
それでも問題がないことの説明や穢の現況を話したり、将隆の政治手腕を目の当たりにした一席だった。
料理半ばで先に政府側の人物は帰って行き、将隆はせっかくだから食べていけと言った。
「奨弥はもう戻ってくる気配がない、新たに総代を迎えたらどうだ」
「それには及びませんわ、双子もおりますし。本来の奏家総代のお仕事は叔父上がなさっておいでですし」
御子姫は将隆にお酌をしながら、戦について話をしていると、突然将隆は将吾の嫁である帆波の話を始めた。
「将吾には良い娘を妻わせてくれ、実によかった。美人で気立てが良い。言うことなしだ」
含み笑いをしながら、将隆は酒を飲んだ。本当に、この男はいやらしい笑い方をする。
「毎晩、子作りに励んでおるようだからな。将吾がおらん時に、一度くらい味見をさせてもらってもわからんだろう」
「叔父上、冗談にしても、そればかりは過ぎますよ」
「冗談か…」
将隆の目の奥には、冗談では済まない不気味なものが覗いていた。
「まさか叔父上、ご自身の息子の嫁ですぞ!それに帆波は私を信じて嫁いだのです!いくら叔父上でも、そのような下劣なことは…」
「では、おまえが代わってやればいい」
将隆は立ち上がると、御子姫の手首をつかんだ。
「なにをなさるのですか!」
「おまえも奨弥がおらんで寂しいだろう」
「結構です、帰ります」
無理矢理、将隆に押し倒され、御子姫は突き飛ばし逃げようとした。
「帆波がどうなってもいいのか」
御子姫は将隆の顔を見ると、この男なら本当にやるに違いないと思った。御子姫はそのまま、将隆にされるがままに身を任せた。知らない男の手が、着物の裾をまくり股の内を弄ってくる。
ーーいやじゃ、いやじゃ、いやじゃ…
男の手が、がばりと勢いよく股を押し広げ、御子姫の下半身があらわになった。
「奨弥っ!!」
奨弥の名を呼んだ瞬間、結われていた御子姫の髪はぱあっと解きほぐされ、真っ白になり宙を舞って将隆の首を絞めた。そのまま将隆を引きづり、宙吊りにした。
将隆がどうなったか見もせずに、御子姫は部屋を飛び出した。髪を振り乱し、足袋のまま走って料亭から逃げ出していた。
運河に架かる橋まで来ると、着崩れた着物を直しながら、御子姫は涙が溢れてきた。
意地と誇りはないのか…以前奨弥に言った言葉が頭をよぎる。顔を手で隠して、嗚咽が漏れる。
ーー奨弥、奨弥…
夜の街に、一人たたずみ、ただただ奨弥のことが心を占めていた。
「姫…?」
奨弥の声がする。振り向くと、そこにまさかの、奨弥が立っていた。御子姫は胸に飛び込むと、声を漏らしながら泣きじゃくった。
どうしたのかと見れば、御子姫は髪も乱れ足袋のままだった。
「草履は…」
「奨弥!!帰ろう!!私と一緒に、里へ帰ろう!!」
奨弥の腕の中で、泣きながら御子姫は何度も奨弥にとりすがった。奨弥は御子姫を抱きしめた。
奨弥はぼんやりと、己の身に起きている違和感を感じていた。もし以前の自分なら、この様子の御子姫を見た瞬間に烈火の如く怒っただろう。それが今では、いきなり意識が飛んだようになり、目の前のことが実感できない。
「愛してる、姫…愛してる。でも…」
「愛してるんじゃろ。ほんなら、帰ろう、奨弥がおらんともう…」
「待っててくれ、必ず帰るから…今は帰れないんだ…」
「どうしてじゃ!」
奨弥は神守の車を呼んだ。
車が来るまで、奨弥は御子姫を抱きしめ続けた。離れようとしない御子姫に奨弥はTシャツをめくって見せた。橋の欄干の灯が奨弥の肌を照らした。
「姫、よく見て…紋を…」
奨弥の体にあった紋が消えかけていた。
「どうしたんじゃ、紋が…紋が…」
奨弥は力なく笑った。
「ごめん、もう遅いんだ。姫、愛してるよ、どんなことになっても、愛してる」
車が来ると、奨弥は御子姫を抱きしめ口づけた。
ーーもう、 会うことはないだろう…
奨弥は泣いて離れようとしない御子姫を車に乗せると、里の響家本家まで届けるよう伝えた。そして、最後にもう一度口づけ、ドアを閉めた。わかりきっていたこととはいえ、奨弥はどれほど後悔したか知れなかった。
御子姫はずっと消えゆく奨弥の姿を追っていた。見えなくなっても見つめていた。
「奨弥…奨弥…」
御子姫は里に着くまで泣き続けた。里に着いたらもう泣くのはよさないと。そう、いくら思っても溢れてくる涙を止めることはできなかった。
御子姫が乱れた形で、泣き腫らして帰ってきた夜から、数日誰とも会おうとせず部屋にこもったきりだった。珍しいことに美琴が、御子姫の草履と手提げを持って本家を訪れた。
美琴は会うなり、深々と頭を下げてお詫びをした。御子姫は自分が油断したせいだと、不問にした。それより気になっていた帆波のことを聞いた。
「帆波は家に迎えた日から、絶えず私か将吾がついております。そんな外道なことを姫様に言ったのですか…あの者なら致しかねませんが」
美琴は、はらわたが煮えくりかえるようだと、重ねて無礼を働いたことを詫びていた。
「実は、帆波は子ができたようでして、先日大事をとって親元へ送り届けたところです」
「そうじゃったか…めでたいの。これで安心して戦ができそうじゃ」
御子姫は、大戦に出ることを美琴に伝えた。
「十年はかかるじゃろう。帆波に無事出産するよう伝えてくれ。戻ってくる楽しみができた」
ーー子か…子に罪はない、罪はないけれど…
ずっと、一人ぼっちだった。この力のせいで。
なぜ、そうまでして、そなたは力なんぞを欲した。
私を守るためか。なにが、そなたをそこまでにしてしまった。
私とそなたは、出逢うべきでは、なかったのだろうか。
どうして、一人で。寄り添っていたと思っていたのに。
私を一人置き去りに。一人ぼっちにしてまで。
いや、違う。
私とそなたは、初めから、一人だった。そなたもまた。
二人一緒にいた時でさえ。互いに一人だった。
それに気づいて。
どこまでも。どこまでいっても。
手になど入らぬものを。求めて。
それでは寂しかろう…




