最初の出会い
「また運河の堰まで、穢が来とるそうじゃ」
「戦の準備をせいっ!!」
若い響家の経紋衆が慌ただしくしている。
その中で一人、部屋で茶菓子を食べながら、悠然としている者がいる。
響家経紋衆の頭領。
御子姫と呼ばれている。名はない。
『名』は呪言避けに、初めから付けない。古いしきたり。
「唱、言葉…腹が減ってはなんとやらぞ」
御子姫の鷹揚とした態度はいつものことだった。
「美味い最中じゃ、餡と餅と、ちょうど良い。食って行かぬか?」
御子姫付きの世話係の双子、唱と言葉。
いま、二人は、御子姫との対となる奏家輪紋衆の総代が欠けて居らぬので、戦でその穴埋めをすべき役目を果たしていた。
御子姫の力は、一人で強大な穢へと立ち向かっても瞬時に祓えるほどであった。その戦振りを間近で見つつ、習い、手助けをするのが、いまの彼女たちの仕事であった。
もちろん、唱も言葉も、十部人部に強かった。
だからこそ、対となるべく輪紋衆の見定めも厳しかった。
「御子姫様、今日は出航前に見定めねば」
「ああ、そうだったなあ」
呑気なものである。
「本厄の十八までもう間がありません」
御子姫だけでなく、輪紋経紋衆、いわゆる《以比勿》と呼ばれる者もまた人には変わりなく、厄年には穢と戦う力が半減してしまうのであった。
「神守になろうとも、あの者は約束は違えまい」
「姫様はお人が良すぎでございます」
確かに、前代未聞のことだった。
一度血の契りを成した、事もあろうに、経文頭領である御子姫と輪紋総代の『対』の解消など。
「いろいろ、あるのじゃ、総代ともなれば」
「そのようなこと、当たり前でございます。ならばこそのお役目なれば」
「もうどっちでもいい、役目は変わらん。新しい総代が決まるまでじゃ」
「それよりも、いざという時のために、唱と言葉の対を真剣に考えねばな」
御子姫は戦さ場用に、白装束へと着替えた。
戦に出る時は、それが大したことがなかろうと、何年もかかる大戦であろうと、出港前の準備は変わりは大してなかった。
船着き場は、経紋衆、輪紋衆、それぞれが出航のために作られた運河に面してあった。
まずは、輪紋衆の船が先を行く。というのも、輪紋衆には屈強な男衆が多く、術の性質上経文衆を守る立場にあった。
その次は、経紋衆が付き従った。ただし、昨今は輪紋衆の総代が突然足抜けのような事件を起こしたが故に、格は微妙であった。
よって、最終的に大運河に集まった両方の船に乗る衆の力を、御子姫が見極め船列を決める慣習へと変わっていた。また、本来なら別々の船に乗っていた、経紋衆と輪紋衆が同じ船に乗り、すぐに術を用いての戦ができるよう変わってきていた。
その時その時の戦の大きさと、人員の揃い方によって、長い年月を経て戦い方も変わってきていた。
出港前に見定めねばと聞き、御子姫の心中は一瞬にしてざわついた。
「そうであったの、楽しみじゃ」
心中とは裏腹に、言葉がついて出る。
ーー一度は対となり血の契りを成した男の…
名を奏司と付けたと聞いている。
初めて会う、自分を置いて失踪した男の子供。総代という立場も捨て置き、悲しみを通り越して呆れた。
その挙げ句、よりにもよってあの女との間に子までもうけるなど…
怒りなどという、単純なものではない。
御子姫は、誰にも気取られぬよう振る舞った。
今夜は大した量ではない穢の始末。
一番は、御子姫の対となる男子の成長ぶりの確認。
船列は、御子姫の船を先頭に輪紋衆が付き従った。
御子姫を要する先頭に立つ戦船は、まばゆいばかりの神々しさだった。
その船が、いつもなら絶対止まらぬ船着場に着けられた。
船を見送る人々の間にざわめきが起きた。
艶やかな真っ黒な黒髪に、白い肌が高揚した、年の頃十七、八の女。
しかも年相応以上の憂いを帯びた女だった。
それが船から一飛びで降りてきたのだ。
御子姫は、母親に手を握られている男の子の前に歩み寄った。
「名前はなんという?いまいくつじゃ?」
男の子はしっかりと御子姫を見て答えた。そう教えられたのだろう。
「名前は奏司。年は十歳」
そうか、そうかと言って、御子姫は愛おしそうに頭を撫でた。奏司は、不思議と嫌がりもせず、御子姫をじっと見つめ返してきた。
母親は、男の子を絶対離すまいと、ギュッと手を握りしめた。
「約束は、忘れてはおらぬじゃろう?」
御子姫の冷え冷えとした声だった。
「先に、禁を犯し、私から対を奪ったのは、誰じゃ」
子供の母親は観念したように、目を伏せた。ただ、心の中では、何かが未だにくすぶっている。いつもそうだった。いつまで経っても、この女がいる限り、心の平穏などないのだ。
御子姫には、母親の心内が透けて見えるようだった。
「そうであろう? 私は何度おまえを許せば良いのか、のう?
まあ、よい。子供の前じゃ」
御子姫は、男の子の頭をぽんぽんと撫で、不安を与えないようやさしく微笑ほほえみかけると、くるりときびすを返した。
背中越しに、母親へは静かに伝えた。しかし、やはり顔を合わせると、以前のことが思い出されて平静さを保つので精一杯だった。
「元総代に伝えておけ。心して育てよと」
運河の水門は二重だった。最初の閘門は現世との境。
船が閘室に入ると、一つ目最初の門は完全に閉ざされる。
そして二つ目最後の門が一度、開けられれば、その先は常世。
常世へとつながる大河であった。
そして最初の閘門から向こう側の陸地こそが現世だった。
御子姫を乗せた船が先頭をいく。
大きな鯉のような魚だが頭が人のような面になっている。
そんな魚が何匹も何匹も襲ってくる。
大きな口に髭、目玉はギョロギョロとどこを向いているかわからない。
「そんなザコは相手するな。じきに大物が来よう」
今夜は大きな穢とならぬよう、ザコの掃除が目的。
「よいか、皆の衆、訓練だと思え」
御子姫の檄が飛ぶ。
「輪紋衆が、経紋衆を守りながら、輪紋を張って経紋を受け止めよ。経紋衆は、ありったけの力を込めて唱えよ。互いに対同士が一番良い頃合いで、輪経紋の術を放つのだ」
そう言ったかと思うと、頃合いを見て御子姫は空高く舞い上がった。
「仕舞いじゃ」
たった一人で、祓言葉を唱え始める。髪がみるみるうちに真っ白になり、瞳は紅く暗い水面を睨めつける。白い肌には経紋が煌々と浮かび上がる。
『吐普加美依身多女』
静かな声が響く。
経紋が体から発せられ、クルクルと宙を舞い大河に向けて打ち下ろされる。そこそこの大物でさえ、ザコの穢と共に跡形なく消え失せた。
これは、経紋の御子姫の力の片鱗に過ぎなかった。