45話「最初のさようなら」
あれはそう少し前のことだ。ほんの少し前のこと、その建物の中には大勢の人間の女がいた。彼女達はもう生きているか死んでいるかわからない奴らが多かった。奥へ進めば進むほど、数は増えてそして残酷な光景だけが目の前に広がっていた。
兵士たちは確か、なんとか助けようとしていた。ただ助けられたものは自分が鎖から放たれたことをすると真っ先に自害を選んだり、発狂したり、そもそも人格自体が無くなる寸前だったりと全て良いものじゃなかった。
一歩一歩とそんな光景を目の当たりするたびに心の内側、一番奥にあったドス黒いものが湧き上がって、燃え上がっていく感じに駆られて、そして衝動を抑えきれなくなった。
(この鎌で目の前の生物を殺し尽くしたい。)
魔族であろうと、人間であろうとだ。ここにいる奴らはもう死んだ方が楽になるやつの方が多かった。でも、もしもの希望を抱いて心が塗り潰されるより早く歩いて、そして進んだ。
途中から意識は闇の中だった。殺したい、殺し尽くしたい。そんな衝動を抑えるのに必死で目の前の残酷な風景なんて、いつのまにか正しく見えなかった。ただ俺にできたことはそれを見て、湧き上がるものを必死に抑えることだけだった。
道中には見知った顔もいた。あぁ、魔族領の時に助けてくれた二人の傭兵、彼女達もいた。残念ながら、もう、死んでいた。もう少し俺が理性的ならここで何かを悲しい言葉の一つでも言えたんだろうが、もうそんなことはできなくなっていた。
もう、ここから離れた方がいい。理性がそう叫んでいても俺は迷わない足取りで最奥へ進んだ、道中で兵士たちは泣き崩れたり、怒り狂ったりして止まった。目の前の事象に耐えきれなかったからだ。当たり前だ、真っ当な人間がこんなのを見たのなら精神がぐちゃぐちゃになってもおかしくない。この中で例外があるのだとすれば、おそらく俺だけだ。
そしてそれを見つけた。
(…………音風、奏。)
彼女の姿は、一番ひどかった。なまじ勇者として人並み以上に体が強く、そして能力的にも申し分なかった。だからか、彼女の体には傷は少なかったが、彼女という人間の尊厳は完全に破壊尽くされていた。
その場所は血と生物的な悪臭で塗れていた。もはや語るまでもない。あたりには新生児の死体もあった。魔族的特徴を持ちながらそれは人の本質に近かった。だからだろうか、魔族達にとってはそれが要らなかったものらしく、その生命は生まれて間も無く死んだのだろう。
彼女は一体───、一体、何人、いや何体。産んでしまったのだろう。
(──────。)
あぁ、優しいあの人間が。こんな目をしてこんな動かない存在になってしまうのか。そう思っただけで、そう思っただけで。
(…………。)
なんとも思わなかった。そう、なんとも思わなかったんだ。俺がここについたとき、俺は完全に人間の心を捨て去っていた。ただ、ただ、何か良心が残っている。溢れ出る内側の何かを抑えるために必死になって、その心を閉ざしているだけ、嘘をついているだけ、本当なら、もうとっくに限界なのにだ。
(でも、ダメだ───だめだ!)
何も感じるな、何も思うな。何か思ったら、
きっと、きっと完全に壊れて狂う。きっと自分の中の枷が外れる。理性でようやく封じ込めていた厄災が解き放たれる。自分に嘘をついて、人間であることを維持するために、本質を受け入れないで、受け入れないで、人と同じような心を無理矢理にでも作る。そんな苦しい時がおさようやく終わる。
(ダメだ、それは違う。)
そんなことは間違っている。きっと望んだことじゃない。だから─────
「ぅ…………ァっ、ぁ。」
小さく言葉を捻り出す音風奏だったもの。俺は耳を傾けた。いや傾けてしまった。
「………ァ、ぁ、………ぃ、ぁ、。ぁぁ、。ぁっ、ぃ。──────。」
彼女は口をこう動かしていた。ただそこから漏れるのはもはや言語ではなく悲惨な結末をただ物語るだけの音だった。
(あ、ぁ。……殺す。)
俺は彼女の言葉を解釈した。きっとそれは助けを求めるものであったはずだ、きっとそれは俺という人間もどきの姿に安堵した声になるはずだった。でも俺は魔族だ、人間じゃなく魔族だ。
心で争い続けていた何かは今のオマエの言葉によって粉々に砕け散った。もう残り滓しかない、そしてそんなものは踏みつける。
「────全てが、死んで………報われる。罪は罰によって裁かれる───そしてこの鎌から逃れられる者は証明されない。」
頭に浮かんだ言葉を歌い、鎌に力を込める。途中激痛が走って倒れてしまうようなことが起こるはずだった。でも痛みはほとんどなかった。そう、俺は進化したからだ。
魔族という、一種の生物。感情によって変性した成れの果て、化け物の象徴たる。魔族。その存在に生まれ変わって昇華した。
衝動に加減が効かなくなったのなら、もう我慢する必要もない人間も、魔族も全てこの辺りにいる者を殺し尽くそう。
まずは───勇者、音風奏。
「さようなら。」
その後、正しく記憶は作動していない。だが体に残る血の温かみや何かが叫んでいたような気がする。多分、ここにいた人間の兵士も、ここにいた人質だった人たちも、ここに隠れていた全ての魔族であっても、全員嵐に巻き込まれたみたいに切り刻んで、殺した。多分。
まぁどちらにせよ俺はその場にいた生命を全て終わらせたことに変わりはない。
「─────ぁ………は。」
笑えない。心の内を晴らしたのに、笑えない。あぁ、どうやら
「─────俺の罰はずっと後らしい。」




