承認欲求
本宮修子はイベントが好きな女性でもあった。バレンタインにはチョコを作るし、クリスマスにはサンタクロースに仮装するし、ケーキも作る。そんな女性であった。お祭り女とでも言えば良いのか。そう言う明るさに留土羅は惹かれていた。
馬鹿騒ぎした後で、余韻に浸る「私、何をはしゃいでるのだろう」と言うその顔に魅力を感じていた。表の顔と、裏の顔を使い分け、良く言えば臨機応変。悪く言えば二重人格の様な部分が本宮にはあった。
留土羅はそう言う部分も、ギャップがあって面白いととらえられる前向きな人間であった為に、彼女が二つの顔を持っている事をマイナスには受け止めなかった。受け取り方によっては、良い子ぶってるとか、ぶりっ子だと思われても仕方の無い行動を本宮はとっていた。
本宮修子と言う女性が留土羅と付き合う事にしたのは、そう言う自分を認めてくれる心の広さが留土羅にはあると思ったからである。好きと言う感情と認めると言う感情は似て非なるものである。好きだけど認めていない。それは愛ではない。好きなだけでは愛に変わらない。つまり恋人には成れないと言う事である。相手を好きで認めあった上で無ければゴールには辿り着けない。それが愛だ。
人間には、恋愛だけに限らず承認欲求と言うものがある。誰かに自分の存在を認めてもらいたい。そう言う欲求が本能的にあるのだ。恋愛も結局は本能的なものであり、種の保存の枠に収まっているに過ぎない。だから相手に認められると言う事は、非常に重要な事なのである。認められると言うのは、主観的な尺度になってしまうのであるが、それでも認可していない相手とは恋に落ちる可能性は低い。それがたとえ上手く行ったとしても深い繋がりになる事は難しい事だろう。
お互いを認めた上で恋におちる。それしか関係性を深化させる方法は無い。相手を認めると言う事は、好きとか嫌いとかそう言う表面的なものではなく、相手を知る。つまり相手をよく知ると言う事が関係性を深化させる唯一の方法なのである。




