第4部・第7章ボシンウォー
山縣有朋は長洲藩出身とは言え足軽よりもっと下の階級であったが、軍監として奇兵隊を率いてイギリスとフランス等の列強相手の下関戦争を戦い戊辰戦争では長岡城攻防戦戦った生粋の軍人であった。戊辰戦争の時は新政府軍の総大将となった有栖川宮の役どころは「指揮官」と言うよりも正に「帝の名代」と言えた。御維新からたかだか10年。官軍の自らの正当性を示すパフォーマンスとしては、西南戦争は有効な場であった。勢い総大将は厳かなる権威があれば良い。実際の指揮官たる参謀長及び幕僚さえしっかりしていれば戦は上手く行くと考えていた。
よく知られている様に、西南戦争の緒戦は熊本城に立て籠もった熊本鎮台の谷千城以下新政府軍守備隊を薩摩軍が包囲しての城攻めであった。わずか3300人の新政府軍が城の強靭さを盾に52日間持ちこたえた。その間に新政府軍は援軍が大挙して北方から到着して、南方からは船舶で上陸した。薩摩軍は、新政府軍に挟撃されて敗走し、熊本城の包囲を解いて薩摩に敗走して行く。特に田原坂の戦いでは、激戦であった。およそ17日間に渡る戦闘で新政府軍と薩摩軍合わせて6000人の死傷者を出したと言われる。
新政府軍はこの時1日平均約32万発の銃弾を撃ったと記録されているが、これは後の日露戦争の旅順攻略戦よりも多い弾数であった。これだけの弾数を撃てたのは、新政府軍の主力部隊が新鋭型のスナイドル銃と言われる元込め銃を装備していたからである。それに対して薩摩軍の主力は、エンフィールド銃と言われる先込め式銃で、銃身の先から火薬と弾丸を込めて撃つ旧式であった。火器・兵器では圧倒的に不利だったにも関わらず、よく訓練され士気の高い薩摩軍は簡単には引き下がらなかった。
山縣有朋の先程の戦況報告は、この田原坂の戦いの時の事である。新政府軍は新鋭のスナイドル銃だけではなく、射程距離・貫通力共に薩摩軍を凌駕するヘンリー・マルチーニ銃や、回転連射のガトリング砲、元込め式大砲のアームストロング砲など、新式の兵器を実戦投入した。結局西南戦争は1877年9月24日、西郷隆盛等薩摩軍幹部が薩摩の城山に籠城して全員が自刃し討ち死にして幕を閉じた。
新政府軍は相当な数の新兵器を購入していた為、戦費は膨大に膨れ上がった。明治10年の国家財政支出が4800万円余りであるが、西南戦争の戦費は実に4156万円余りにもなっていた。…と、ここまで長く西南戦争に目をつけたのは、新政府軍がどれほどのキャパシティを持っているのと言う事を知ると共に、ムシャカマルや土方や榎本が倒そうとしている勢力のディテールを知ってもらう為でもある。西南戦争は格好の材料となったのである。




