西南の役
さて、ここで史実で起こった西南戦争について記載しておこうと思う。近代日本が経験した日本人同士の最新鋭の兵器を用いた本格的な近代戦争。それが明治10年(1877年)の西南戦争である。
学校教育で教えられる西南戦争と言うのは薩摩(鹿児島)の不平士族の反乱を明治新政府軍が鎮圧した。と、教科書ではせいぜい一行、二行しか書かれていないが、そのイメージも恐らく刀を振り回す薩摩隼人の肉弾戦と言う様なものではないかと思うが、実際は全然違う。
西郷軍は当時日本最強の陸軍であった。戊辰戦争に勝って明治維新を成し遂げたのは、薩摩・長洲の軍事力によるものであるが、中でも薩摩陸軍の軍事力は圧倒的であった。明治10年の西郷軍は薩摩出撃当初の兵力で、約1万3千人、小銃1万1000丁、大砲60門、と当時としては堂々たる大軍である。(不平士族の反乱)と言うレベルではないのである。これは立派な戦争であった。
西郷隆盛が薩摩の鶴丸城の廃墟に作った私学校は、県下名所に100以上の分校があり、3万人の生徒がいたと言うから、その半数近くの生徒を引き連れていた事になる。新政府軍の討伐隊は約3万7千人(増派前)と数では上回っているが、明治6年(1873年)から始まった徴兵令により集められた農民や商工民の次男、三男坊と言う所がやっとの部隊を新政府軍は送り込んだという。明治10年時点で新編成の新政府軍はどれほどの練度があったかは西郷軍と比較してもまだまだ貧弱だったと言わざるを得ない。
御親兵の中でも精鋭と言われた薩摩軍の半数が西郷と一緒に薩摩に引き上げたが、その西郷軍は歴戦の強者である維新の有志からなっていた。新政府軍の参謀長として西南戦争に参戦した長洲藩士の山縣有朋が戦況報告書で、100人余りの薩摩軍抜刀隊が突如長剣を振りかざして切り込んで来る。その為我軍の新兵は驚愕して敗走する者が多い。と記している様に軍人VS素人と言う構図になっていた事に違いはない。
最強の西郷軍に対抗するには、新政府軍としては最新鋭の装備を用意する必要があった。もしも負ける様な事があっては、折角作り上げた維新政府機構の崩壊を意味する。西郷軍は攻撃目標を九州における新政府軍の拠点である熊本城(熊本鎮台)に定めた。西郷等が薩摩を発ってから4日後、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋等、新政府軍参議は西郷軍を賊軍として討伐する事を決定。「鹿児島県逆徒征伐軍」を派遣する事が明治天皇の裁可を得る。総督には有栖川宮熾仁親王が任命され、「参軍参謀長職」には、山縣有朋陸軍中将と、川村純義海軍中将が就いた。




