咸臨丸(かんりんまる)での航海
勝は気分転換の為日誌を眺めていた。この日誌は咸臨丸で渡米した時からつけているもので、もう10年近く続けるものであった。咸臨丸とは安政7年(1860年)1月米国に向かう使節団が使用した船の事であり、率いたのは海軍奉行木村摂津守で艦長が勝であった。木村の従者として「学問のすすめ」で有名な福沢諭吉も同乗していた。彼等日本人乗組員は、航海のほとんどを日本人だけにより行われたと主張していたが、実際には同乗していたブルック大尉以下11名の米国海軍軍人無くしては、操船もままらなかった事が後に公開ブルック大尉の日記で明らかになる。
ちなみに勝はこの道中船酔いの為太平洋横断中、ほとんど船室に籠っていた。その時につけた日記であった。この渡米が勝にこれからの日本は、貿易を盛んにして大商業国家を目指すべきだと言う構想を抱き、海軍の重要性を強調させる要因になった。内向きだった日本に対して海洋に目を向けさせた事の功績は大きい。実際の史実通りならば、海軍建設は後に昭和天皇の養育係を勤める川村純義、西郷隆盛の弟の従道、白州正子の祖父の樺山資紀と言った薩摩藩の出身者達が携わるはずであった。
日本海軍ではこうして薩摩人脈が山本権兵衛や東郷平八郎などまで続いて行く事になる。そのルーツを辿ると、幕末の薩摩藩主島津斉彬に行きつくのだが、話がそれているのでこの辺にしておこう。
1860年1月の時点では、操船すらままらなかった日本海軍(海軍とは言えないかもしれないが…。)であったが、たったの4、50年で当時の世界最強のロシア海軍バルチック艦隊を打ち負かし、米国に戦争を挑みボロ負けするのだから、日本と言う国は不思議な国である。勿論、ムシャカマルが現れたこの世界では同じ様にはならないだろう。歴史の大転換期にムシャカマルは現れたのだ。「陸の長州、海の薩摩」と言う構図にはならない。いや、したくない。それはあくまで新政府軍が天下を取った事に起因する。
所がその新政府軍はもう江戸にはいない。まだまだ、内戦は終わっていないのである。諸外国からのプレッシャーもある中で、ムシャカマル達旧幕府軍勢力は一刻も早く天下再統一をして、外圧に対抗出来る勢力の構築を行う必要があった。その為にも、薩摩・長州からなる新政府軍を倒さなければならないのである。




