勝海舟の太平洋戦略
来るべき新政府軍との大きな戦に向けて、勝が交渉しようと試みていたのがメリケン(米国)だった。日本にとっては遥か遠い国であったが、日本の外交政策の軸は明らかにメリケンに左右されていた。この1870年代と言う時期にはメリケンも海軍を持ってはいたが、その実力は沿岸警備隊の延長に過ぎないものであった。何故勝は欧州列強ではなくメリケンを選択したのか?
それは、勝が考える太平洋戦略を進めて行く上で、非常に重要な国であったのがメリケンであったからである。太平洋戦略とは、日本が鎖国を解いた時に、自力で航路を開けるのは太平洋を通って米国大陸までの道で、日本と言う島国が太平洋のルートを抑える事は出来ない。だからメリケンを始め北米や南米の国家と国交を持つ事であり、日本の国力をを上げて行こう勝海舟独特の戦略であった。脱亜入米とも言うこの戦略は確かに日本を開国させたメリケンと手をとるなら、有効な戦略かもしれない。
勝が幕臣時代に築いた人脈があればそれは可能な戦略なのかもしれないだろう。しかし、肝心の海軍力が援助とするならば、弱い気がする。日本の10年後20年後と先を見据えるのならば、この太平洋戦略は大局に基づいたグッドプランかもしれない。
しかし、今この一瞬新政府軍との戦いの崇勢を左右するなら、メリケンよりもエゲレスやロシアと手を組むべきではないかと言う意見もあった。だが、勝にはどうしても政治的に国益を考えて行動してしまう様な癖があった。勝は今、旧幕府軍勢力の中で最も権威のある幕臣である。その勝に意見出来る人間はほとんどいない。結局もめにもめたが、メリケンに援軍を依頼する事になった。メリケン大使館に即座に連絡をとり新たな日米の条約を結ぶ事を提案。その条約には日本のメリットよりもメリケンのメリットの方があるかの様に上手く調整した。そうする事によって、メリケンが食い付いて来やすいに仕向けたのである。
新条約締結打診から2時間後には、メリケンからその条約なら締結し直しても良いと、相変わらすの上から目線であったものの回答が来る。その一週間後横浜にて正式に条約に調印する為、メリケンは使節団を派遣。旧幕府勢力側も勝海舟や土方歳三、榎本武揚等要人を出して応対した。メリケン側が新政府軍と勘違いしている恐れがある為、その旨も伝えた。この交渉が不意に終わればまた0から援軍を出してくれる国を探さねばならない。それだけは避けたかった。




