第4部・第2章ムシャカ様
第2次函館総攻撃によって、蝦夷地に残る新政府軍勢力は本州へと引き上げて行った。徳川連合軍は、その勢いそのままに陸奥(青森)→盛岡→秋田→山形→仙台と本州の東北地方を再び奪還する事に成功する。そのハイライトを第2章ではお伝えしようと思う。
本州最北端の陸奥での戦闘は予想通りの激戦が展開された。徳川連合軍は、夜の見張りが手薄になる時間を見計らって進軍。この作戦は特に誰が考える訳でもなく、自然とそう言う成り行きになった。新政府軍は、蝦夷地から引き上げて来た約25万人の軍勢を陸奥藩に投入し、一挙に勝負をつけようと今か今かと待っていた。対する徳川連合軍は軍勢5万人と新政府軍の5分の1程の勢力でしかない。ここでもムシャカマルの髪がかった采配が炸裂する事になる。
軍勢が足りないのはどうしようもない。ならば、一点集中で敵の総大将を撃ち取り指揮命令系統をぐちゃぐちゃにしてしまえば、後は烏合の衆と同じ事。そして戦闘の最先端にムシャカマルは立った。徳川連合軍の総大将は榎本。参謀は土方と指揮命令系統をしっかりとさせるのは、ムシャカマルのたっての要望であった。後ろが決まれば、先発はやるべき仕事も明確になる。
この作戦は天候のお陰で上手く行った。普通、合戦を戦うならば、火薬がしける雨の日は避けるものである。しかしそれは鉄砲を扱う軍勢力に限った話。鉄砲を使わない軍隊(とはいかにも旧式の古臭い軍隊ではあるが。)にとって見れば、恵みの雨も同じ事。徳川連合軍が5倍の新政府軍を撃退したのはそんな雨の日であった。作戦は思いの外素早く手短に済んだ。一時間もしないうちに、新政府軍隊長代行の黒岩光彦をムシャカマルが撃ち取り、後は芋づる式に配下の大量の雑兵を蹴散らすだけであった。
新政府軍は、この陸奥藩での作戦で12万人(約半数)の兵力を失い関東まで撤退を余儀なくされた。徳川連合軍にも被害はあったが、約2000人の死者で済んだ。貴重な戦力の損失は痛いが、致し方ない犠牲であり、ムシャカマルの想定内だった。5万人で12万人を蹴散らしたのであるから、それを考えれば最小限の被害であった。こうして、陸奥藩を抑えた徳川連合軍は次なる目的地を盛岡(岩手)に設定し、勢力の拡大を図っていたのであった。




