弟と過ごす日(1)
買い物を済ませて帰宅すると、アパートの前にジュニア用のマウンテンバイクがとまっていた。
部屋への階段を上りきったところで、予想通り、扉の前に座りこむ蒼介の姿が見えた。
「兄ちゃん!」
僕に気づいた蒼介が、笑顔で駆け寄ってくる。その姿は、芝生の上を跳ねまわる仔犬を連想させた。
「おかえりー」
「ただいま。いつから待ってた?」
「ちょっと前からだよ」
蒼介が僕の手から買い物袋を奪う。
「持つよ」
「おお、ありがとう」
空いた手で鍵を取り出し、扉を開けた。
「お邪魔しまーす」
真っ先に蒼介が部屋の中に飛びこんでいく。その背中に向かって、僕は尋ねた。
「それで、今回の原因は何?」
母親と喧嘩するたび、蒼介は僕の元を訪ねてくる。
「今言わなきゃだめ?」
「いいよ。先に電話する」
実家の番号を呼び出した。今頃、祥子さんは息子が帰らないと心配しているかもしれない。蒼介がうちに来ていると知らせておかなければ。
応答したのは、留守電の音声だった。
「家、誰もいないの?」
「あ、そうかもー」
蒼介が呑気に答える。
「なんか最近、お母さんよく出かけるんだよねえ」
「出かけるって、どこに?」
「うーんとね、ボランティアとかー、テニススクールとか、あとなんか近所の人と公民館行ったりしてるー」
「え? 何それどうしちゃったの?」
蒼介は、一体誰のことを言っているのだろう。蒼介の母、祥子さんは積極的に家の外へ出て行くタイプではない。
「うん?」
蒼介は生返事を寄こした。いつの間にか僕のパソコンを立ち上げ、動画投稿サイトを開いている。
父さんのスマホのほうにメッセージを残すと、蒼介からパソコンを奪い返した。
「その動画、まだ途中なのに」
「それより、話がまだ終わってないだろう」
「わかったよ。じゃあ兄ちゃんお願い、何か作って。お腹空いた。食べながら話すんでいいでしょ?」
炒飯を作ってやると、蒼介はあっという間に平らげた。
出会ったばかりの頃、蒼介は食が細かった。五年生になった今では、驚くほどよく食べる。
「それで? 結局蒼介は何をして喧嘩になったんだ?」
蒼介は空になった器を名残惜しそうに見てから、
「俺は何もしてないよ。悪いのはお母さんのほうだし」
と下唇を突き出した。
それから母子喧嘩の経緯を語った。
きっかけは、学校から保護者宛に配られたプリントが消えたことだった。祥子さんは、そもそも最初からそんなプリントなど受け取っていないと主張した。しかし蒼介のほうは配られた当日、確かに自分は渡したはずだと言い張った。激しくぶつかり合った後、マグネットで冷蔵庫に貼り付けられた状態のプリントが見つかった。他にも同じような印刷物が貼られていたため、祥子さんは見落としていたのだという。
「俺がプリント渡してすぐ、お母さんは自分で冷蔵庫に貼ってたんだよ。そのこと、すっかり忘れちゃってたんだ。それなのに俺がなくしたと勘違いしてさあ。それにプリントが見つかった後、俺に謝りもしないんだよ。ほんとひどいよね」
蒼介は母親への当てつけに、僕を訪ねて来たのかもしれない。ふと、そんな考えが浮かんだ。
僕と祥子さんは、そりが合わない。祥子さんは僕を苦手に感じているようだし、僕のほうでも彼女の存在を素直に認められずにいた。
同じ家にいても、関係はギスギスするばかり。ならばこの際、物理的に距離をおいたほうがお互い気楽になれるのではないか。
そうした経緯から、僕はひとりで暮らすようになった。
蒼介も母親と継兄の関係が良くないことに、薄々勘づいているはずだ。だからこうして時々、僕の元へ息抜きにくるのだろう。母親がわざわざ継兄の部屋を訪ねるはずないと、確信しての行動なのかもしれない。
話し終えた後も、蒼介はうだうだと僕の部屋にい続けた。
父さんが迎えに来て、ようやく帰り支度をはじめた。
父さんは玄関から僕の部屋をちらりと覗いて、「相変わらずだな」とつぶやいた。
「そこにあるのは、なんだ?」
ガス台の上の鍋を指差す。
「圧力鍋だよ」
「はあ、なんというか随分……物々しい感じのする鍋だな」
「これで豚の角煮とかシチューを作るんだ」
「ふうん、そうか」
父さんはそれきり黙り、落ち着かない様子で蒼介の帰り支度が終わるのを待った。
僕の部屋で過ごしたのがいい気分転換になったのか、蒼介は帰り際、「じゃあ兄ちゃん、またくるね」と屈託なく笑った。もう拗ねてはいないようだった。
「うん、じゃあな」
父さんと蒼介が出ていった後も僕は玄関にとどまり続けた。扉の向こうの声に、耳を澄ませた。二人の会話が小さく聞こえた。
「ねえ、どうして兄ちゃんだけこっちに住んでるの? 兄ちゃん、いつうちに戻ってくる?」
「そうだな……もう少ししたら戻ってくるよ」
「早く戻って来てほしいな。また兄ちゃんと一緒に住みたいよ。お父さんだってそう思うでしょ?」
「ああ、そうだな。また一緒に住みたいよな」
父さんの言葉は、本心じゃないだろう。蒼介に合わせて言っているだけだ。きっと腹の中では、厄介者がいなくなって清々しているはず。
父さんは息子の僕よりも、新しい妻である祥子さんのほうが大事なのだ。