見守る日(2)
スーパーマーケットの第二駐車場で、小松原さんは桐丘と睨み合っていた。平日の中途半端な時間帯のためか、周辺には人も車もない。買い物客のほとんどは、店舗入り口に近い第一駐車場を利用しているのだろう。
ここなら、多少暴れても人目につきにくい。
小松原さんもそう判断して、桐丘を待ち構える場所に選んだのかもしれない。
彼女と桐丘に気づかれないよう、駐車場の案内板の裏に身を隠す。そこから、注意深く二人の様子を窺った。
桐丘の手には、長い鎖状のものがあった。あれが今回の凶器か。
桐丘は勿体つけるように、空中で鎖をしならせた。鎖の先がすぐ傍のポールを掠め、辺りに軋んだ音が響いた。細かな水滴が飛び、小松原さんが表情を険しくする。
駐車場は見通しがよく、小松原さんが身を隠したり、盾として使えそうなものは一切なかった。
僕は必死に頭を働かせた。何かないか。何か、彼女を手助けできるものは――。
そのとき、視界の端に見慣れたものが映った。買い物客の誰かが元の場所に戻さず、放置して帰ったのだろう。
僕はそちらににじり寄ると、そっと隠れ場所へ引きこんだ。
桐丘が動きを速める。体勢を低くし、小松原さんの足元を狙って鎖を放る。小松原さんはそれを軽やかな足さばきで避けた。
桐丘が体をひねる。僕の隠れ場所に対して、背中を向けた格好になる。
今がチャンスだと、僕は案内板の裏から飛び出した。直前に見つけて引きこんでおいた買い物カートを、思いきり蹴り飛ばす。
雨に濡れて滑りやすくなった駐車場を、カートは真っすぐ桐丘へ向かって滑っていく。
虚をつかれ、一瞬桐丘の動きが止まった。その隙に、小松原さんの元へ駆け寄る。
「逃げよう」
彼女の手を掴んで言った。
「今のうちに、一緒に逃げよう」
「待って、どうして的場くん」
小松原さんは驚いた様子で身をよじり、僕の手を振りほどいた。
「やめてよ! なんで!」
「心配で、小松原さんを追いかけて来たんだ」
「だめだよ。的場くんには関係ない。危ないから早くここから離れて」
「嫌だ」
「どうして」
「どうしてって、小松原さんを放っておけないからだよ!」
「わたしを可哀想だと思っているなら、余計なお世話だよ」
「違う、可哀想だなんて思ってない! ただ僕自身が、小松原さんと関わっていたいんだ! それを余計なお世話だととらえるなら上等だよ。どんなに嫌がられたって拒絶されたって、僕は小松原さんの傍にいる。自分でそう決めたんだ! 誰にも邪魔させない!」
――ガシャン!!
けたたましい音が響き、僕と小松原さんは同時に身構えた。
桐丘がカートをなぎ払っていた。
桐丘は怒っているはずだ。
小松原さんを襲う機会を、部外者の僕に邪魔されたから。
おそるおそる桐丘の表情を窺う。
相手も、僕を見つめてきた。
視線が合う。
瞬間、全身が粟立った。
桐丘の目からは、何も読み取れなかった。想像したような怒りも殺意もない。桐丘は、感情というものが一切抜け落ちた目をしていた。
僕は今、とんでもない相手と向き合っているんじゃないか。
この期に及んで、実感した。
突然現れたり消えたり、様々な凶器を一瞬で出現させたり、桐丘という存在は僕の理解の範疇を超えている。だけど何より異様なのは、果たしてここまで無感情な状態で、人を襲うなどできるのだろうかということだった。エネルギーの元となるべき大きな感情の揺らぎが、桐丘からはまるで感じられない。
こんな底の知れない存在から、小松原さんは二年間も逃げ続けているのか。
震えながら、僕はもう一度小松原さんの手を握った。彼女は今度、抵抗しなかった。
「大丈夫だよ、的場くん」
僕のほうが彼女に励まされた。当たり前だけど、彼女の手は僕の手と全然違う。薄くてやわらかくて冷たい、女の子の手だ。
「もう大丈夫だから。たぶん、もうすぐ消える。ほら――」
桐丘のほうを凝視しながら、小松原さんは言う。
桐丘の輪郭がぼやけていく。そうしてふいに、姿が見えなくなった。
「消えた」
「うん」
「十分経ったってこと?」
「うん、そうだよ。ね? 大丈夫でしょう? わたし今回も桐丘の攻撃から逃げ切ったでしょう?」
雨の勢いはさらに強まり、小松原さんの声がくぐもって聞こえた。
「おおーい」と、どこからか呼ばれた気がした。見ると、駐車場の入り口に、黒のレインコートを着た警備員らしき姿があった。
「君たち、こんなところで何やってるの?」
どちらからともなく、僕たちはつないでいた手をほどいた。
「今しがた、お客さんから事務所のほうに連絡があったんだよ。学生さんたちが何かふざけているみたいだって。だめだよ、駐車場で遊んじゃあ」
「すみません。今出ていきます」
僕は警備員に謝り、小松原さんも頭を下げた。それで見逃してくれると思ったが、警備員は僕たちに歩み寄ると、
「傘も差さないでどうしたの。ずぶ濡れじゃないか」
咎めるというより、こちらの身を案じるようなトーンで問いかけてきた。
小松原さんが青ざめた顔で、目を伏せる。
「なんでもないです。えーっと、さっきちょっとここで、うちで飼ってるのにそっくりな猫を見かけたんです。それでつい探すのに夢中になってしまって、雨にも気づかないくらいで……」
咄嗟に僕はでっち上げた。
「猫、しばらく前から帰ってこなくなってて、家族も心配してるんです」
「そうか」
警備員はひとまず納得してくれたみたいだった。
「それで猫は? 見つかったのかい?」
「いいえ。傍に寄ってよく見てみたら、毛色が同じなだけで全然別の猫でした」
「そう、残念だったね。無事見つかるといいね、猫」
「はい」
「風邪引くから、今日はもう家に帰ったほうがいいよ」
「はい、そうします。すみませんでした」
僕たちは揃って駐車場を出た。今から傘を差しても、ほとんど意味がないだろう。雨に打たれたまま歩いた。
「的場くん、もうこんなことはやめてね」
小松原さんは濡れて張りついた前髪の間から、責めるように僕を見た。
「今日みたいなことしたら、次こそ的場くん死んじゃうかもしれないよ。桐丘の攻撃は本物だからね。当たれば痛いし、血が出るし、本当に死ぬような怪我だってするんだから」
「そんなの僕だけの話じゃない。小松原さんだって同じだろう」
「わたしは逃げ慣れてる。桐丘の攻撃パターンだってわかってる。でも的場くんは何も知らないでしょう?」
「じゃあこれから小松原さんの動きを見て習得していくよ」
「そんな簡単なことじゃないよ」
「わかってる。でも僕が自分で決めたことだから。それに僕と小松原さん、攻撃対象が二人に増えれば、桐丘を早く消耗させられるかもしれないよ」
小松原さんが眉をひそめた。
「本気なの?」
「本気だよ」
僕は強くうなずいて見せた。
「これから雨が降るたび、小松原さんに張りついておくことにする。どうしてもやめさせたいなら、僕を力づくで押さえるしかないね」
「力づくって……」
小松原さんはため息をつき、僕を睨んだ。
「友達にそんな乱暴な真似できないよ。ああ、知らなかった。的場くんて案外ずるい性格してるんだ」
「そうだよ」
僕は冗談めかして胸を張った。彼女が発した「友達」という言葉に、距離が縮まった手応えを感じる。
「ずるいし、強情だし、自分勝手」
「うん、よくわかってるね」
「もう」
小松原さんは僕の肩を小突いた。それから観念したように言った。
「……条件があるの」
「条件?」
「わたしと桐丘のやりとりに、的場くんは一切関わらないでほしい。同席するのはいいけど、安全な場所から見ているだけにして。この条件を受け入れてくれないなら、わたしは本当に力づくで的場くんを押さえなきゃいけない」
小松原さんの表情は険しい。譲る気はないようだ。
「わかった、いいよ」
降参を示すように、僕は両手を上げた。
「だけど本当に僕は見ているだけ? 何か手伝えることはないの?」
「うん、ないよ。大丈夫。ありがとう。あ、でも桐丘の前で警戒するのは忘れないでね。桐丘はたぶんわたし以外の人には攻撃しないだろうけど、何が彼を挑発するかわからないから」
「……了解」
やはり僕が小松原さんの力になるなど、無謀なのだろうか。
弱気になりかけたとき、裕司の言葉が頭の中で響いた。「余計なこと考えて足踏みしているうち、救えるものも救えなくなるんだよ」
そうだ、今は何も考えず、自分の心に従おう。今日明日には無理でも、小松原さんの傍にい続けるうち、いつか僕が彼女の役に立てる日が来るかもしれない。
そのときまで、僕はこの新しい友達を見守るのだ。