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秘密の日(3)

 差し出されたスケッチブックを受け取り、厚みのある表紙を開いた。描かれていたのは、さっき見せてもらったものとは趣向の違う、デフォルメされた動物の絵だった。全体的にやわらかいタッチで描かれ、色合いも優しい。


「これは」

 僕は反応に困った。最初のスケッチブックの絵から雰囲気が変わりすぎていて、どう感想を述べたらいいものかわからない。


「へ、変かな?」

 小松原さんは不安げに僕の顔を覗いた。


「変じゃないよ。正直言うと、さっきの絵と全然タイプが違うから驚いてるんだ。これってイラストだよね?」

「うん」

「もしかして、小松原さんが目指しているのはイラストレーター?」

「ううん、違う」


 小松原さんは首を振り、「無謀かもしれないけど、わたし、絵本作家になりたくて」と恥ずかしそうに言った。


「わたしの両親、絵本作家だったの。お父さんが絵を描いて、お母さんがお話を作ってた」

「ええ、そうなんだ。すごいね。僕、小さい頃絵本はたくさん読んだよ」


 過去に僕が読んだ絵本の中に、小松原さんの両親の作品があったらいいな。なんとなく、そう思った。


「ご両親の絵本って、今手元にある? 見てみたいな」

「絵本は……ない」

「じゃあタイトル教えて。後で本屋寄ってみるよ」

「本屋さんには置いてないよ。出版されたのはかなり前だし、あまり売れなかったみたいだから。今は絶版になってる」

「そうなんだ」


 ごめんね。反射的に口にすると、小松原さんはううんと、首を振った。

 そこで会話は途切れ、僕は小松原さんにスケッチブックを返した。

 重苦しくなった空気を切り裂くように、インターホンの音が響いた。


「もしかして、これから何か約束でもあった?」

 時刻を確認する。訪問してから、結構な時間が経っていた。突然押しかけ、お昼までごちそうになって、いい加減図々しい奴だと思われていないだろうか。

 これ以上長居をするのは迷惑だと判断し、腰を浮かす。

「誰か来たみたいだし、そろそろ帰るね」


 小松原さんは答えなかった。硬い表情で立ち上がると、静かに玄関へ近づいていく。ドアスコープを覗き、訪問者の姿を確認した。次の瞬間、びくりと両肩を震わせた。

 こちらを振り返った小松原さんの顔は、ひどく青ざめていた。


「どうしたの?」

 慌てて彼女の傍に歩み寄った。扉の外には誰がいるのだろう。


 そのとき、ガンッという音とともに、玄関の扉が揺れた。訪問者が強く叩くかしたのだろうか。続いて外から、

「おい、想乃! いるんだろ? 今すぐ出てこいよ!」

 怒声が飛んできた。声の感じから、同年代の女の子だろうと見当をつける。

「あんたがうちに全然顔出さないからさあ、こっちがわざわざ来てやってんだよ。待たせるんじゃねえよ! 早くここ開けろ!」


 小松原さんは硬直したまま、訪問者の声を聞いていた。


「一丁前に無視してんなよな、クズが! 今すぐ出てこい! 開けろよ!」

「……っああ、足が痛いなあ。誰のせいだよ。ああ、痛い痛い痛い……」

「生活費欲しいんだろう。預かってきてやったんだ、さっさと受け取れよ!」

 訪問者は扉を叩き続けている。


「小松原さん」

 僕はそっと耳打ちした。

「大丈夫?」


 小松原さんは弱々しく瞳を揺らせた。

「へ、平気だよ」


「外の人、なんなの? 危なくない? なんかちょっと興奮してるみたいだよね。僕、代わりに応対しようか?」


 小松原さんはかぶりを振った。

「大丈夫。彼女は美南ちゃん。わたしの従妹だから……」

 そうして扉に向かって、「ご、ごめん。今開けるから」と声を張り上げた。


 扉を叩く音がやんだ。

 小松原さんが鍵を外した瞬間、外から勢いよく扉が引かれた。薄暗い玄関に、光が差しこむ。眩しさに、僕は目を細めた。


 瞼を上げると、小柄な女の子の姿があった。色白の肌、やわらかそうなショートヘア。セルフレームの眼鏡の奥には、やや垂れ気味の丸い目がある。一見すると、真面目でおとなしそうな子だった。

 さっきまで怒鳴り声を上げ、扉を叩いていたのは、本当にこの子なのか。ちょっと信じられない。


「ほら、今月の金。来月はちゃんと自分で取りにこいよ」

 小松原さんの従妹は言い、茶封筒を彼女に投げつけた。それから僕に気づいて、目を丸くした。

 驚きを浮かべた顔が、すぐさま意地悪そうに歪む。

「へえ、あんた男連れこむためにうちを出て行ったんだ?」


「あ、あの、的場くんは同じクラスで……」


「いいよ、別に知りたくない。うちの親には男連れこんでること黙っといてあげるから。感謝しなよね」

 小松原さんの従妹は冷ややかに言うと、

「じゃあ」

 妙にぎこちない足さばきで去っていった。


 彼女の後ろ姿を見て気づいた。もしかしたら左右どちらかの足が悪いのかもしれない。

 そういえばさっき、足が痛いとも言っていた。


 従妹がいなくなると、小松原さんは深いため息をついた。

「変なところ見せてごめんね。お騒がせしました」

 投げつけられたままの茶封筒を、床から拾い上げる。


「さっきの子は?」

「わたしが小さい頃、両親は事故で亡くなったの」

 僕の質問と、小松原さんの声が重なった。僕ははっとして彼女を見つめた。あまりにさらりと言われたので、相槌を打つ隙すらなかった。


 己の鈍感さが憎らしい。

 先程、小松原さんは両親は絵本作家だったと、過去形で語った。聞いた時点で、僕は想像しておくべきだった。いや、彼女がひとり暮らしをしている時点で、気づくべきだったのか。


 小松原さんはなんでもない顔で続ける。

「それからずっと、わたしは美南ちゃんの家にお世話になってるんだ。今年の三月までは同じ家に住んでいたんだけど、色々うまくいかなくてね、高校も決まって、いい機会だからひとりで暮らすことにしたの。と言っても、引き続きここの家賃や生活費は叔父さん――美南ちゃんのお父さんに払ってもらってるんだけど」


 そういう事情があるから、小松原さんは立場が弱いのだろうか。養ってもらっているから?

 従妹の言動が蘇ってくる。

 どうしてあんな乱暴な接し方をするのだろう。暴言を吐けるのだろう。

 小松原さんにはなんの落ち度もないはずだ。両親を亡くしたのも、彼女のせいじゃない。生活費だって、普通に手渡しすればいいじゃないか。なぜ投げつける必要がある?


「小松原さん、もしかしてあの子のせいで家を追い出されたの? ひとりで暮らせって? ちょっとあの子おかしいよ。あんな乱暴な真似、許しちゃいけないよ」


 僕は強く訴えた。

 小松原さんは諦めたような顔をしている。あの従妹からの仕打ちを、当然のことと受け入れてしまっている。

 なぜ、不当だと声を上げない。

 お節介とは思いつつ、僕は口を出さずにいられなかった。


「世話になっている恩とか色々あるんだろうけど、嫌なことは嫌とはっきり伝えていいと思うよ。でないとあの子はどんどん調子に乗るだろうし。一緒に住んでたときから、ずっとあんな態度取られてたの? あんまりだよ。小松原さんが一体あの子に何をしたっていうんだ」


 昨日今日でしか小松原さんとまともに接していない僕でもわかる。彼女は他人を傷つけたり、他人から憎まれるようなことをする人じゃない。

 一緒に桐丘に立ち向かうという僕の申し出を、彼女は即座に断った。

 人に負担をかけたくない。人が傷つくのを見たくない。犠牲になるのは自分だけでいい。小松原さんはきっと、そんな優しい考えのできる人なのだ。


「何をしたって?」

 小松原さんの顔が強張る。

「実際、わたしは美南ちゃんに許されないことをしたんだよ」




 ■ ■ ■




 小松原さんの部屋から帰る途中、バス停に座る彼女の従妹を見つけた。向こうも僕の姿に気づいて、「あ、あんたさっき想乃のとこにいた奴」と声を上げた。


「的場綾人です」


「ふん」

 彼女は生意気そうに鼻を鳴らし、

「想乃から聞いてる? わたし、想乃の従妹で――」


「美南さん、だよね?」

「うん、そう」


 美南さんは僕から視線を外し、スマホを操作しはじめた。僕は美南さんに一言言ってやりたい衝動に駆られた。しかし、小松原さんは彼女に対し、何かしらの負い目を感じているようだった。

 許されないことをした。そう言ったきり黙りこんでしまった小松原さんの、耐えるような横顔を思い返した。ここで僕が余計なことを言えば、小松原さんと彼女の関係をますます悪くするかもしれない。

 開きかけた唇を、ぎゅっと引き結んだ。

 美南さんは苛立った様子で、時刻表をたびたび睨んでいる。


「ああ、ここの路線ちょいちょい遅れるんですよね」

「ねえあんた、年下に敬語なんて使わなくていいよ。わたし、中三」

「ああ、そうなんだ。じゃあ、えーっと、美南さんはこの後予定あるの?」

「何? わたしのことナンパしてる?」

「まさか、違うよ。今、バスの時間を気にしているみたいだったから」

「そうなの。この後友達と約束してて」

「友達には、遅れるって連絡したほうがいいかもね」

「するよ。あんたに言われなくても」


 美南さんはぶすっとした顔で、スマホの操作に戻った。

 小松原さんとの関係について何か聞きだせたらいいなと思ったのだが、気が立っているらしい相手と会話を続けるのは骨が折れる。


「じゃあ、僕はこれで」

 立ち去ろうとすると、

「あ、ちょっと待って」

 美南さんに呼びとめられた。


「ん?」

「ねえ、あんたさ、これ以上あいつに近づかないほうがいいよ」

「あいつ?」

「想乃だよ。あいつに関わった奴はね、みんな不幸になるんだよ」

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