病の日(3)
「奪ったって、どうして……?」
「子どもの頃、俺と小松原想乃は病院の待合室でたまたま一緒になった。その頃の彼女はまだ、うまく治癒能力を使いこなせていなかった。だから、失敗した」
「それって」と口を開いたところで、気がついた。
「小松原さんは昔、治癒能力を使ってあなたの体を治そうとしたことがあったんですか?」
桐丘が首肯する。
「今となってはもうあの苦さを思い出すことはできないけどね、子どもの頃の俺は、薬を飲むのが苦手だったんだ」
「子どもはみんなそうですよ」
僕が言うと、そうだったねと、桐丘はかすかに笑った。
「その日、俺は風邪を引いて学校を休んだ。診察を終え、母と二人、待合室のソファで会計を待っていた。そのうち母がカウンターへ呼ばれて、俺はひとりその場に残った」
そのとき、隣に座っていたのが小松原想乃だったんだ。桐丘はそう言って、遠い目をした。
「同じタイミングでくしゃみをしたのをきっかけに、俺たちは言葉をかわした。俺は小松原想乃に愚痴った。頭と喉が痛い。熱が高いせいで、筋肉痛だ。寒気がするし、これから苦い薬を飲まなきゃいけないのが憂鬱だと。すると幼かった小松原想乃は、俺の耳元でこそりと言ったんだ。自分には、一瞬で病気を治す力があると」
「それで、小松原さんはあなたに風邪を治してみせようかと尋ねた」
「いいや、違う。俺のほうから、今ここで俺を治してみせろと迫ったんだ。ちょっとした意地悪のつもりだった。一瞬で病が治るなんてそんな都合のいい力、あるわけない。この子はでまかせを言っているに違いない。だから今ここで、白状させてやろうじゃないかって、俺は考えた。こちらが本気で信じたふりをして治療を乞えば、この子は逃げ道がなくなって、今の話は嘘だったのだと打ち明けるしかない。情けないことに、そうやって年下の女の子を負かしたい気分だったんだろうな、あのときの俺は。体が辛くて、朝からイライラしていたからね」
しかし、桐丘の目論見は外れることになる。
小松原さんは目を閉じると、その場で何事かをつぶやきはじめたのだった。
「つぶやきが終わると同時に、俺の体からは不快感が消え去っていた。痛みもしんどさもない。驚いたよ。この女の子は、本当に俺の風邪を治してくれたんだと思った」
「だけど、違ったんですね」
「ああ。少しして、俺は異常に気づいた。物に触れても、その感触が伝わってこない。母の手が額に触れても、触れられた感じがしない。母の体温を感じない。母の匂いがしない。何を食べても味がしない。食感もない。熱いのか冷めているのかもわからない。小松原想乃は俺の病気を治すつもりが、能力の使い方を誤って、俺の体から様々な感覚を奪い去ってしまったんだ」
「それが、あなたが小松原さんを襲う理由」
「うん」
「復讐のつもりで」
「うん」
「今の話、小松原さんに話したことは?」
「ないよ」
「なんでですか? たぶん小松原さんは、子どもの頃に病院で会った男の子があなただとは気づいていない。過去の失敗にも気づいていない可能性が高い。そうですよ、今からでも小松原さんに事情を説明しましょう。それであなたは元の健康な体に治してもらうんですよ。あ、でも――」
事情を話せば、小松原さんは激しく自分を責めるだろう。彼女の行いは、桐丘の人生を奪ったに等しい。
今度こそ、小松原さんは罪の意識に耐えきれず、壊れてしまうかもしれない。
それに、再び能力を使って、桐丘の体におかしな影響が出ないとも限らない。僕やクラスメイトたちが特定の感情を失ったように、桐丘もまた心的に何かを損なうかもしれないのだ。
軽々しく、治してもらおうなどとは口にしちゃいけなかった。
僕が沈黙すると、桐丘はひっそりと尋ねてきた。
「綾人は、どうして俺が死のうとしたと思う?」
試すような視線を向けられ、僕は思考を巡らした。
雅也さんの話では、桐丘が自殺に失敗したのが、半年前。つまりその頃、桐丘の身に死を決意させるような出来事が起きたのだ。一体、何が?
そこで思考は止まる。僕は桐丘のことを知らなさすぎる。
「綾人はさ、女の子と手をつないだことある?」
唐突に、桐丘が問いかけてくる。僕は小松原さんの手の柔らかさを思い出しながら、ゆっくりと顎を引いた。
「それじゃあキスは? セックスは?」
「えっ」
口ごもる僕を無視して、桐丘は続ける。
「俺はそういうものを一生経験できない。行為自体はどうにかできたかもしれない。だけど、相手の温もりを感じられないんだったら、経験していないのも同じじゃないのかな。虚しいよ。感覚がなくても、人と話はできるし、面白いものがあれば一緒に笑うこともできる。コミュニケーションに支障はない。感覚がすべて正常にはたらく人間は、そう楽観視するかもしれない。だけど実際感覚を失ってみれば、そんな簡単な話じゃないってわかるはずだよ。共感も親愛も、相手と触れ合ったという確かな感覚があってこそ成立するものなんだ」
桐丘の口調は淡々としていた。
「何も感じない。いつも俺だけ、偽物の世界に閉じこめられているみたいだった。俺は永遠にひとり。誰かと深く分かり合うことなんてできない。半年前、決定的な何かがあったわけじゃないんだ。ただずっと前から、俺は死にたいと思ってた。たまたま半年前、それを実行しただけ」
少し前まで、僕は自分はひとりだと感じていた。父の愛情を求めるあまり、身勝手に祥子さんを僻んで、当たり散らし、自分は家族の中で孤立していると思いこんでいた。
だけどそんなもの、桐丘が抱える絶望と比べたら、可愛らしいものだった。
誰にも、桐丘の孤独を正確に捉えることなどできない。それこそが、桐丘の語る孤独そのものなのだった。
「残念ながら自殺は失敗。俺は生き長らえてしまった。最低の結末だよ。だけど自殺をしてみて、一ついいことがあった」
「いいこと?」
「綾人は、俺がタイムリープできると言ったら、信じる?」




