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秘密の日(2)

「的場くんが?」

「うん。僕にも桐丘の姿が見えているわけだし。きっと小松原さんの役に立てる」


 一応、母が亡くなるまでは空手を習っていたから、多少の戦力にはなれる……だろうか?

 小松原さんを守るだけの力が、僕にはあるか?

 通っていた空手教室の内容は、今思えば子どものお遊びレベルだった。正直言えば、自信はゼロだ。だけど小松原さんの境遇を聞いて、知らんぷりなどできるはずがなかった。


「小松原さんの力になりたいんだ」


 小松原さんは苦しげに目を伏せた。

「……ありがとうございます」

 その声にはっきりと拒絶の気配があった。

「だけどこれはわたしの問題だから。的場くんを巻きこむわけにいきません」


「でも、」

「的場くんには桐丘の姿が見えている。だから昨日のことは誤魔化しようがない。詳しい説明もなしに、一方的に秘密にしてくれなんてやっぱり都合が良すぎる。そう思って、正直に話しました。それだけです。的場くんに助けを求めるために打ち明けたんじゃありません。桐丘の姿が見えるというだけで、的場くんに必要のない重荷を背負わせるわけにはいきません」


 そう言って、小松原さんはにっこり笑ってみせた。

 教室にいるときの小松原さんは、いつも寂しそうな顔をしている。そんな彼女が、初めて見せてくれた表情。強がっているのが丸わかりの、下手くそな作り笑顔。

 なんて痛々しい笑い方をするのだろう。

 昔の自分を見ているようで、胸がうずいた。

 今の彼女のように、差し伸べられた手を跳ね除けて、ひとり殻に閉じこもっていた時期が僕にもあった。


「わかったよ」

 僕は順番を間違えていた。

「じゃあ、今からは全然関係のない話をしようか。ただのクラスメイトとして、普通でありふれた話を」

 最初の段階からやり直そう。

 力になるならないの話を持ち出すのは、もっとお互いのことを知ってからだ。


「小松原さんて、兄弟いるの?」

「ひとりっ子です」

「僕には一応、小学生の弟がいるよ」

「弟さんですか。いいですね」

「あのさ、僕たち同じクラスなんだし、敬語やめない?」

「あ、そういえばそうですね」

「ほら、また」

「ご、ごめんなさい。じゃあ今からタメ口で」

「うん、タメ口で」

「はい」

「小松原さんは、休みの日は何してるの?」

「……洗濯したり、掃除したり。的場くんは?」

「僕も同じ」

「なんか意外」

「そう? 僕料理だってするよ。あ、じゃあ小松原さん、好きな食べ物は?」

「パン」

「パン? どんな?」

「パンならなんでも。強いて言えば、焼き立てがいいかな」

「他には?」

「パンケーキ」

「他には?」

「マフィン」

「えーっと、小麦粉が好きなのかな」


 そうやって僕たちは話を続けた。小松原さんは僕のどうでもいい質問にも、大真面目に答えた。

 しばらくすると、小松原さんの腹が、ぐうと鳴った。


「あ、もうこんな時間か」

 棚の上に置かれた時計を見る。午後一時。


「お腹空いたね」

 恥ずかしそうに腹をおさえ、小松原さんは言った。お土産のチョコ大福は空になっていた。

「お昼、食べる? カップ麺があるの」


「いいの?」

「うん。的場くんはうどんと蕎麦、どっちがいい?」

「蕎麦」

「じゃあ作るね」


 コンロの前に立って、小松原さんはお湯を沸かしはじめる。彼女の肩越しに、僕はキッチンの様子を覗いた。調理器具などは見当たらず、日常的に使われている形跡もない。

 小松原さんと僕の部屋、殺風景という点では似ているけれど、キッチンだけは違うと思った。僕の部屋のキッチンは、これまでコツコツ買い集めた調理器具や家電でひしめいている。道具には凝るほうなのだ。対して小松原さんのキッチンは、あまり食べることに興味がない人のそれだった。


 お湯を入れたカップ麺を、小松原さんは僕の前に置いた。

「どうぞ。五分経ったから食べられるよ」


「いただきます」

 僕はかき揚げ蕎麦、小松原さんはきつねうどんに口をつけた。


 早々に食べ終え、容器を片付けようと腰を上げたとき、棚の上に気になるものを見つけた。

「これ、スケッチブック?」

 住人の趣味や生活ぶりを示すものが見当たらないと思った部屋の中で、それだけが唯一、個人を表している気がした。


「小松原さん、絵を描くの?」

「あ、うん。まだまだ練習中だけど」

「見てもいい?」


 特別絵に興味があるわけではなかった。ただ、小松原さんのことをもっと知りたかった。彼女は普段どんなものに心動かされているのか。描いた絵を見れば、その片鱗が掴めるかもしれない。

 スケッチブックの一枚目には、風変わりな動物の絵があった。四つ足で胴体は白く、頭と手足は黒い。長く突き出た鼻はユーモラスで、瞳は小さい。


「バク」

 じっと眺めていると、小松原さんが小さく言った。

「動物園のバクの檻の前で描いたの」


「バクって、確か悪夢を食べてくれるとかいう?」

「厳密に言うと、動物のバクと悪夢を食べてくれるという獏は別物らしいよ。元々、獏という想像上の生き物がいて、後からそれに姿がそっくりの動物が発見されたから、バクと名付けられた。……ていう説を聞いたことがあるけど、もしかしたら真実は動物のバクからインスピレーションを得て、獏という生き物を創作した人がいたのかもしれないよね」

「ジュゴンを見間違えて、人魚の存在を作り出したみたいな?」

「うん、そんな感じかな」

「僕、本物見たことないんだけど、バクって結構面白い外見しているよね」


 絵に描くくらいだから、小松原さんはバクが好きなのだろうか。


「面白い……。うん、そうだね……」

 小松原さんは神妙な面持ちで、スケッチブックの中のバクを撫でた。


「バクが好きなの?」

「好きっていうか、ちょっと気になって」

「気になる?」


 僕は改めて、小松原さんの描いたバクに目をやった。バクの黒く濡れたような瞳が、僕を見返してくる。そんな錯覚を起こすほど、小松原さんの絵は鮮やかだった。


 おもむろに、小松原さんが口を開く。

「悪夢を食べたバクは」


「ん?」

「悪夢を食べたバクは、その後なんともなかったのかなと思って」

「うん」

「悪夢なんか食べて、お腹を壊したり、気持ちが悪くなったりしなかったのかなって、考えたことがあったのね。それで気になって、想像上の獏は無理だから、せめて現実のバクのほうを見てみようかな、なんて」

 小松原さんは終始真剣なトーンで語った。


 僕は顔の筋肉を緊張させた。少しでも気を抜けば、にやけるのを抑えきれない。小松原さんの内面が見えた気がして、うれしかった。想像上の生き物を心配して、動物園まで足を運ぶ。僕しか知らない、ちょっと不思議ちゃんな彼女の素顔。


「現実のバクはどうだった?」

「少し、寂しそうだった」と、小松原さんは感想を口にした。だからだろうか、彼女の描いたバクは、哀愁を帯びている。


「次の絵も見ていい?」

「うん」


 二枚目には、気持ち良さそうに寝転ぶ猫の姿があった。見ていると、腹の毛の柔らかさや、体温などが伝わってくる気がした。

 次の絵は蝶だった。その次は公園で遊ぶ子どもたち、紙飛行機を折る少年の横顔、空を横切る紙飛行機、桜が舞い散る風景――スケッチブックを捲るたび、いきいきとした場面が広がった。

 すごい、と思わず声がもれた。美術に疎い僕でも、すぐにピンときた。小松原さんはここ数ヶ月の間に絵をはじめたのではない。もっとずっと前から、おそらくかなりの枚数を描いてきたのだろう。


「ほんと今は練習中だから……」

 僕が無遠慮に見すぎたせいか、小松原さんは弁解するように言った。

「なんかごめんね、下手な絵で」


「ええ? 全然下手じゃないよ」

「でも自己流だし、基礎的なものも勉強してないから……」

「僕は絵のことはわからないけど、別にいいんじゃないかなと思うよ。自己流でもなんでも。小松原さんの絵、僕は好きだよ」

 それから思いついて尋ねた。

「もしかして将来、絵に関係する道にすすみたいとか?」


「あ、えーっと……」

 小松原さんは急にそわそわしだした。

 あまり突っこんではいけない話題だったのか。


 ごめん、と唇を動かす寸前、小松原さんが立ち上がった。

「あの、ちょっと待ってて」

 そうして奥の部屋に姿を消した。少しすると、別のスケッチブックを手に戻ってきた。

「あ、あのね、本当はこっちなの」


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