秘密の日(1)
翌日、土曜日。
雨は深夜のうちに上がり、朝からよく晴れていた。
僕は改めて、小松原家を目指した。
到着したのは古い二階建てアパート。小松原さんは上の階に住んでいるらしい。
休日に、約束もなく家を訪ねるなんて迷惑でしかないだろう。
だが僕にはお土産を渡すという使命があった。今日中に渡せなければ、僕を信じて頼ってくれた安在さんを裏切ることになる。お土産のチョコ大福は消費期限が今日までとなっているから、月曜日に学校で渡すのでは遅いのだ。
第一に、僕は昨日の件が気になっていた。そのことで、小松原さんと話がしたかった。彼女を襲っていた男について、詳しく尋ねてみたい。
インターホンを押すと、ややあって小松原さんの声が返ってきた。
「的場くん、でしたよね?」
「ご、ごめん突然に」
僕は早口で来訪の理由を告げた。
少し間があって、細く扉が開かれた。小松原さんが顔を覗かせる。僕はお土産の入った袋を差し出した。
「わざわざありがとうございます」
「うん」
探り合うように、視線を交わす。
「あのっ」
僕たちは同時に口を開いた。
「小松原さん、先にどうぞ」
「あ、うん。えっと、やっぱり昨日のこと、的場くんにはちゃんと説明するべきだったんじゃないのかなって、考え直したんです。あんな場面見せておきながら、事情も明かさず頼みごとするなんて、自分勝手でしたよね。ごめんなさい」
「いや、謝られるようなことは何も。だけど教えてくれるなら、聞きたい。ていうか、小松原さんが切り出さなかったら、僕から尋ねるつもりだったんだ」
アパートの住人のものだろうか。階段を上ってくる足音が聞こえた。小松原さんはちらりと通路に目をやり、
「じゃあ、ちょっと上がってもらえますか?」
「え、でも」
土曜日だし、家族だっているんじゃないだろうか。
「大丈夫なの?」
問いかけると、小松原さんは一瞬ぽかんとした顔になった。それから僕の心配を察したらしく、
「遠慮しなくても大丈夫ですよ。他に誰もいませんから」
「それって、もしかして」
アパートはどう見ても、単身者向けのものだった。
「はい。わたし、ここにひとりで住んでるんです」
「え、小松原さんも?」
「も? てことは……」
「うん、事情があって、僕も四月からひとり暮らししてるんだ」
意外な共通点を知り、少しうれしくなった。
小松原さんの部屋は、ひどく殺風景だった。女の子の部屋と聞いて想像する、かわいらしい小物やぬいぐるみのようなものを一切なく、家具は折りたたみ式のローテーブルと小さな棚のみといった具合だ。
「ごめんなさい、水しかなくて」
「いいえ、お構いなく」
ミネラルウォーターのペットボトルを置いたテーブルを挟み、僕たちは向かい合った。
「あ、せっかくだからお土産、一緒に食べましょうか」
と小松原さんは気を遣ってくれる。
二人ともしばらく無言で、チョコ大福を口に運んだ。裕司が言っていた通りだ、大福は甘さ控えめでとてもおいしかった。
昨日のことを説明したいと言った小松原さんだったが、その表情からはまだ迷いが窺えた。
ごくんと大福を呑みこんで、僕は口を開く。
「昨日、小松原さんを襲っていた男だけど――」
小松原さんの振る舞いを見た感じでは、男と会ったのは昨日が初めてではない気がした。以前にも男から襲われた経験があったんじゃないか。
「あの人は小松原さんの知り合いなの? もしかして小松原さん、何かトラブルを抱えていたりする?」
「あ、えーっと……」
小松原さんは俯き、ためらいがちに切り出した。
「説明させてほしいって言ったけど、人に話すのは初めてで、うまく伝わるかどうか自信なくて」
「大丈夫。僕のほうからも質問を挟んでいくから」
決して的場くんをからかっているわけじゃないですからね。小松原さんをそう前き置きしてから告げた。
「まず、わたし以外、あの人の姿を見ることはできません」
「え、僕見たけど」
「はい。だからそれが不思議なんです。わたしの他にあの人を認識できたのは、的場くんが初めてです」
「あの人、何者なの?」
他の人には見えないなら、あの男は幽霊か何かなんだろうか。今まで生きてきて、僕は心霊現象というものに遭遇したことがない。自分に霊感が備わっているとは思えなかった。
「わかりません。ただ、あの人――名前は桐丘といいますが、最初に姿を見たのは、二年くらい前でした。以来、桐丘は雨が降るとわたしの前に現れます」
「どうして桐丘は昨日、小松原さんを狙ったんだろう」
「昨日だけじゃないです。現れるたび、襲いかかってきます。この二年間、桐丘の攻撃を避けるうち、わたしの身体能力は飛躍的に向上しました。どうやらわたしと桐丘の間には、深い因縁があるみたいなんです」
「因縁って?」
「具体的なことは不明です」
小松原さんはもどかしそうに言った。桐丘については未知の部分が多いようだ。
僕は質問を変える。
「桐丘はいつもどうやって現れるの?」
小松原さんは両手のひらを僕に向けると、素早くグーパーと握って開く動作をしてみせた。
「こう、パパパパッとした感じで突然出現します」
「桐丘って名前は、どうやって知ったの?」
「初めて会った日、彼のほうから名乗ってきました」
「会話したりするんだ?」
僕は昨日、桐丘の声を聞いていない。なんとなく、桐丘は問答無用で襲いかかってきたように想像していた。
「いいえ、桐丘が喋ったのはそれ一回きりです。突然目の前に現れて、名乗って、その後は金槌を振るってきて――」
「ええ? 金槌?」
「はい、金槌」
小松原さんは真面目な顔でうなずいた。
桐丘が最初に現れたのが二年前なら、当時小松原さんは中学二年生。十四歳の女の子が金槌で襲われたなんて、ものすごい恐怖体験だ。いや、年齢や性別など関係なく、トラウマものだろう。突然現れた正体不明の男が襲いかかってきたら、誰だって怖い。
「昨日はゴルフクラブだったけど」
「はい。的場くんが声をかけてくる前は、鉈を持っていました。どういうわけか桐丘は、攻撃アイテムを次々召喚できるんです」
「ちょっ、攻撃アイテム? 召喚?」
「変ですか?」
「いや、なんか凶器って言ったほうがしっくりくるかも」
「わかりました。その凶器を、桐丘は次々出現させてわたしを攻撃してきます。わたしはそれを避けて、逃げ回ります。だいたいいつも十分くらいでしょうか、桐丘は一定の時間が過ぎると消えるんです。出てくるのは雨が降っている間の一度きりで、タイミングはまちまちです。とにかくわたしは、桐丘の現れる雨の日の、十分間を逃げ切ればいいんです」
「あの、そんな当たり前のように語ってるけどさ、僕には理解不能なんだけど。二年もの間、昨日みたいなことが続いているなら、誰かに相談したり助けを求めようとは考えなかったの?」
昨日、桐丘と対する場面を僕に目撃されたとわかったとき、小松原さんは「誰にも言わないで」と言った。
どうして秘密にするのだろう。
小松原さんは弱々しく首を振り、
「桐丘の姿は他の人には見えません。きっと他人の目には、桐丘の攻撃をかわすわたしの姿が、異様な光景に映るでしょう。ひとり理由もなく取り乱している、錯乱している……そんなふうに見えるはずです。わたしが桐丘の存在を訴えたところで、真剣に取り合ってはくれないと思います。それに――」
一度言葉を切り、小さくつぶやいた。
「相談できるような相手もいないですし」
「そんな……」
僕は言葉に詰まった。
小松原さんは話を切り上げようとする。
「そういうわけで、正体不明の亡霊のような男に雨が降るたび襲われているなんて言えません。言うつもりもありません。言えば確実に虚言癖を疑われるでしょう。だからどうか今わたしがお話したことは秘密にしてください。お願いします」
「で、でも実際小松原さんは危ない目に遭ってるわけだし」
僕は食い下がった。
「秘密にする理由はわかったけど……」
自分でもよくわからない感情が、胸の中に渦巻いていた。僕は今、何を言おうとしているのだろう。彼女に何を伝えようとしているのだろう。
「少なくとも僕は見過ごせないよ。だってもう無関係じゃないし。僕は小松原さんの体験が本当だということを知っている。小松原さんの言葉が嘘じゃないことを知っている。だから――」
「的場くん?」
小松原さんが戸惑い気味に問いかけてくる。
僕は一息に宣言した。
「だから、これからは僕も一緒に桐丘に立ち向かう」