1 出汁
一条忍は由緒正しい名家の令嬢である。朝礼では毎度、何かしらの芸事で表彰され、成績はいつも学年トップ。長く艶やかな黒髪と端正な顔立ちは、目にした誰もが振り返ってしまうほどの美しさだ。
人と話すときは常に微笑みを浮かべ、休み時間はずっと本を読み、時折窓の外を眺める、まさに深窓の令嬢といった雰囲気。男子生徒であれば一度は彼女にあこがれを抱く。しかし、彼女のあまりのハイスペックさに慄き、高校三年間、誰一人告白するものは現れなかった。
かくいう僕も高校卒業間近まで、彼らと同じ凡俗の一人であったわけだが、柄でもないくせに卒業式に彼女に「付き合ってください」と告白をした。
「ええ、よろしくお願いします」
あっさり快諾を得てしまった。慰めモードを準備していたギャラリーもびっくり仰天。彼女と僕の交際が始まった。
春休みの間は、映画館や水族館などのごくごく平凡なデートを楽しんだ。初めて出来た恋人で、彼女との交際は実に新鮮で楽しかった。しかし、四月から、彼女は家から通える大学に、僕は就職することになっている。
そこで、彼女から提案があった。「四月から二人で一緒に暮らしませんか?」と。彼女の家はとんでもない名家のお金持ちで、マンションを所有している。その一室にタダで住まわせてもらえるというのだから、中流家庭の高卒男子が断るはずがない。
そして、春からキラキラの同居生活が始まるはずだった…
「今日のすまし汁のお出汁に、あなたの残り湯を使わせていただきました」
「ーーっ! ゲホゲホ 何してんだ!」
そう、彼女は頭のねじが一本外れている。
「だって、あなたのことが好きすぎて、あなたの体液一滴さえ無駄にしたくなかったんです。単なる生温かい水道水もあなたが浸かれば、あなたの成分が溶け出した極上のお出汁に生まれ変わります。実質、希釈されたあなたです。それを捨てるだなんて、本当にあなたを愛していれば、そんなことできません」
至極まじめそうに彼女は言う。
「僕を好いてくれるのは嬉しいけれど、僕はお湯に溶け出ないから。不溶性だから。てか、愛情表現のベクトル間違えるよ、それ。まあ、百歩譲って、君が飲みたい気持ちは分かった。けれど、僕の気持ちを考えてよ。何で自分の残り湯を飲まなきゃならないのさ」
「いいえ、あなたが飲む理由はあります。さっきの私の発言を思い返してください。そこに答えはあるはずです」
某小学生探偵並みにもったいぶる。
「いや、分かんないよ。君が僕の成分が溶け出したお湯を捨てたくないって話だろ?」
「はあ。そうですよ。そこに答えがあるじゃないですか。やっぱり、付き合って一か月では以心伝心とまでは行きませんね」
「まだ、一か月も経っていないよ。それより、答えは何なのさ。どうせ聞いてもしっくりこないだろうけど」
本当に嫌な予感しかしない。
「ふっ。仕方ありませんね。正解は…私も浸かったお湯なので、私の成分も溶けている、でしたー!」
「ああ。僕が君の成分を摂取できると言うことかい?」
「ザッツライト! あなたも私の成分が溶け出た残り湯を味わってください。お互いがお互いの分泌物を摂取できるなんて一石二鳥ですね」
はちきれんばかりの笑顔で言っていることがおぞましい。
「嫌だよ。自分の残り湯を飲むのは嫌だし、君の残り湯も別に飲みたくないよ」
その言葉に彼女が青ざめる。
「そ、そんな…もう私への愛情は尽きてしまったのですか!」
「そういうことじゃないよ。君のことは好きだけれど、愛情表現として残り湯を飲むということが理解できない」
「そんな『大好きだよ』なんて照れます。でへへ」
体をくねくね曲がらせて照れ始める彼女。普段の凛とした佇まいはどこへ行ったのか。話が届いていないので、肩をゆすって正気に戻す。
「ボディタッチだなんて今日は積極的ですね」
彼女が頬を赤らめる。
「話を聞けよ。君がおかしいんだぞ。好きな相手だからといって残り湯を飲むだなんて聞いたことがない。君が特殊だ」
「そんなことありません。食べちゃいたくなるほどかわいいとか、爪の垢を煎じて飲むとか、人の成分を摂取する慣用句やことわざはたくさんありますよ」
それっぽいこと言っているような言っていないような。
「それはあくまで比喩だから。玉の皇子は玉じゃないし、ガラスの心はガラスじゃないだろう?」
「確かに。私が特殊な愛情表現をしている可能性は否定できません」
「うん。今度から料理には普通の水道水を使ってくれ」
「わかりました。あなたの汁物に残り湯を入れるのは今日限りにします」
「今日が初めてじゃなかったのか。」