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高円寺のウィスキーバーで「鵼の碑」を読む

還暦すぎのフリーライター、修善寺大地が仕事で出かけた先で、好き勝手に本を買い、本を読み、酒を飲むだけの話。

 やってしまった。

 長野での取材仕事の帰り、新幹線を降りた大宮の駅の書店で、「鵼の碑」を買ってしまったのだ。仕事のためにキャリングケースを引いており、これ以上、荷物を増やしたくなかったが、17年ぶりに刊行された京極堂の新刊というのは見逃せない。「姑獲鳥の夏」から「邪魅の雫」まで付き合ったし、この前、放映された特番も見てしまった。

 店頭で見たら、買ってしまうのはしかたない。


 しかし、やってしまった、というのが正直な一言である。


 まず、新書とは思えないほど分厚い。800P越えだ。レンガというにふさわしい。片手で持ちながら読むには重いし、混雑した夜の埼京線には似合わない。1kgはあるだろうか? 取材装備で荷物も多い上、この後、知人のバーに寄る約束もしている。後でAmazonで買って家に届けてもらうのがクレバーな対応だ。

 ついでに言えば、新書で2,500円近い価格も痛い。今月来月は原稿料の谷間なのだ。物書きとしての速度の関係で、単行本の手伝い仕事の原稿料が入るのは2ヶ月、3ヶ月先が当然。今度出る本など、3年前に書いたものだ。さすがに出版社も待たせてしまないと思ったらしく、去年の呉に原稿料をくれたが、フリーランスの物書きというのは、こういう狭間が生じることがある。

 そう言えば、知人の小説家夫妻と飲んだ時に、奥方が来月は収入のある月かどうか、心配になる、と愚痴っていた。それなりの人気作家でもそうなのだから、業界のすみっコに暮らしているフリーランスには、よくあることだ。


 混雑した電車の中で片手に持つのを諦め、「鵼の碑」をキャリングケースに入れて漫画を読む。それはそれで読書中毒でしかない。「ブルーロック」「葬送のフリーレン」「天幕のジャードゥーガル」の新刊を読み、新宿で中央線に乗り換えて、高円寺へ。


 高円寺の商店街の奥、雑居ビルの3Fに上がる。

 ウィスキーにハマり、酒販業に転じて輸入販売に携わり、最近は蜂蜜酒の醸造にまで手を伸ばしている知人がついに自らのバーを都内に開いた。まあ、顔を出さねばいかんだろう。

 ただし、取材帰りなので、挨拶だけと自分に言い含める。

 最近の体調を考えて2杯まで。


 細長い店で手前にバーカウンター、奥に4人までのテーブルが4つ。壁はウィスキーの棚で埋まっている。琥珀色の壁である。

 後で、ゆっくり瓶を眺めることにして、メニューからオススメというミードカクテルを頼み、「鵼の碑」を取り出す。改めて手に持つと意外に軽い。紙の選択で重さを軽減しているのか? それこそこの本が「鵼の碑」なのかもしれない。

 表紙のデザイン、ぬえの説明、文字の配置が京極堂だ。

 変わらない、そして、期待させる。


 これでは買うな、というのが酷な話だ。


 めくった表紙の袖に、時間に関する記述がある。あらすじではなく、時間の曖昧さを語り、その上には、モノクロの古民家の家の中の写真。こういうセンスが好きだ。

 写真はプロではないが、仕事柄、よく撮影する。人や風景を撮って、売れるほどではないが、まあ、イベント取材や物撮りまではしないとやってられない。

 そういう身からすると、この袖の写真、文言にセンスが溢れ出るのはうれしいばかりだ。もとはデザイナーだという京極先生ならでは一冊だ。


 目録と題された目次をめくると、古事記や平家物語から始まる「ぬえ」関連文献からの引用がある。いつもの作法だが、今回は叩きつけるような物量だ。


「俺を殺す気か」


 思わずつぶやき、ミードカクテルを飲み干す。甘い蜂蜜酒の糖分が頭に回ってくる。いや、酒精アルコールか?

 一旦、本から目を離し、周囲の棚を見る。ジュラなどに並んで、イチローズ・モルトのいい瓶が並んでいるじゃないか? ウィスキーの銘品200種以上を謳うだけのことはある。メニューには変速3種飲み比べ2,500円のスペシャルメニューもあり、そそられる。これとあれとあれを飲んで、その値段なら、無茶苦茶安い。


「落ち着け」


 思わず呟く。明日も仕事だし、今日の体調から見て、もう1杯が限界だ。

 しばらく見回して、漫画風のラベルが目に入る。

 girls。石森プロに映画風のイラストをつけてもらったシリーズだ。


「こいつをショットで」


 テーブルに戻り、「鵼の碑」を開く。

 序章に当たる「鵼 久住加壽夫の創作ノオトより」に入る。


 朔の夜である。

 何も見えない、朔の夜である。

 暗い。梦い。暝い。星さへもない。


 この冒頭がよい。

 ああ、京極堂だ。3行めの3つの「くらい」がしびれる。


 読み進めれば、闇の中を彷徨う僧侶が己の身體という形すら見失いながら、浜辺をさすらう様子に続き、ついにぬえが鳴く。


 ひい。

 ひやう。


 擬音という演出。文字の見え方にこだわる京極堂シリーズならではの配置。

 この鳴き声が見開きの最後に来るのが、京極堂だ。


 思わず、息を飲み、知らぬまに置かれていたグラスを手に取る。

 少しだけナッツめいた甘い匂いを吸い込み、軽く舐める。


 お、これは美味いぞ。


 girlsというタイトルに騙されていたが、こいつは本物だ。

 テーブルに置かれていたボトルの裏を返す。

 輸入したのはウイスクイー。中身はダフタウン醸造所の13年だ。

 ああ、このボトルもぬえだったか。


 「鵼の碑」にふさわしい一杯。これを飲み終わるまで読んで、家に帰ろう。



本を買うのは、性である。

読みたい本を物理で買わないと我慢できない。

電子で買うこともないではないが、目が滑るし、結局、読みたい本は物理書籍で買う。

京極堂の新刊、17年ぶりだったし、「邪魅の雫」には違和感があり、それ以降はあまり読んでいなかったが、結局、見れば買ってしまう。

真面目に「やってしまった」と呟いた。


今回の店のモデルは高円寺のBar Trian。

蜂蜜酒ミード関係の付き合いがあるディアレットフィールド醸造所/令和商会/KFワークスさんのお店。酒の揃いは面白いし、同社の蜂蜜酒が常備されているのもよい。


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