前編
後輩に「パワーリフティング」という競技の日本王者がいる。
彼は国民体育大会で優勝しており、日本代表として国際大会にも出場経験のある猛者だ。ここでは「I君」としておこう。
一方。彼の学生時代に、アルバイトの職場で先輩の立場だった私は、幼少時から絶望的な運動音痴。
縄跳びが一回も跳べない、腹筋運動が一回も起き上がれない、50m走で初めて10秒を切れたのは小学6年生……といった具合。
だから「運動ができる」奴は、私にとっての憧れだった。
中学校に入り、テレビゲームの「実況パワフルプロ野球」しかやったことがない私は、その憧れだけで野球部に入部する。
上手くなりたい一心で、部活動を終え家に帰ってからもバットの素振りを繰り返し、3年生になる手前で「椎間板ヘルニア」という腰の怪我をした。
それから高校の3年間に至るまで、何もできなかった。
大学生になり、学内のジムが許可制で利用できる、とのことだったので、私はリハビリテーションの一環として、学生部に申請を出した。
そこで、普及し始めていたインターネットや、書籍から知識を得た上での「筋トレ」を続けてみると、私の体は劇的な改善をみせてくれた。
腰は治り、少しずつだが、憧れのアスリートのような体形に近付いていった。
大学を卒業してからも、筋トレを継続した。もっとも、仕事の事情で中断していた時期はある。
しばらくは格闘技をやっていたが、それで食べていけるような素質もなかったから、数年後ジムの会長に「しばらく休みます」と伝えて、ばっくれた。
気が付けば私には、筋トレだけが習慣として残っていた。
そんな中、時代は筋トレを後押しするようになる。「ベストボディ」「フィジーク」といった名称の、言わば「気軽に出られるボディビル大会」が出現したのだ。
日本でそれらが初めて開催された頃、私は興味本位で出場し、意外にも好成績を収めていった。そもそも参加者が少なかったからなのだが。
実績は全日本10位、関西5位、県3位といった具合だ。
私がI君と出会ったのは、その頃。
彼は学生でありながら、既にパワーリフティングの大会でそこそこの実績を重ねていた。
二人とも、分野は少し違っていながら、本気で筋トレに取り組んでいる者同士だったので、酒の席ではよく議論していた。
その後、彼は卒業・就職し、以降しばらく交流は途絶える。次に会うのは、I君がパワーリフティングで日本一になってからのことだった。
日本一の彼と、日本の上位から数百人の位置にいる私。
もちろん、一般の方々からみればどちらも「凄い」のだろうが、その「凄さ」には既に、天と地ほどの開きが生じていた。