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幽霊屋敷の主人 Another Romancer

 人は経験によって自我を形成する。日々を他人と過ごす事に寄って、産まれたままの無為なる魂は練磨され、人の形となり、やがて立派に完成した一人の人間へと成長するのだという。

 子供の頃、外国から来た家庭教師がそう言っていたのを覚えている。あの頃の私ははただ漠然と、そんなものかと考えるだけに過ぎなかったが、幽霊となった今は実に尤もな事だと感じていた。肉の体を何処かに忘れ、心の寄る辺を失っても、夜になれば眠り、朝になれば起きるという繰り返しを私は行っている。不必要であろうとも、その習慣が生きていた時の私、ノーマン家の実質的最後の人間にして当主、グレイ・ノーマンという存在を定義付けていた以上、変える事は不可能なのだ。

 そうして今日もまた、私は、長い間使い続けてきた自分のベッドの中で眼を覚ます。カーテンの隙間から差し込む眩しい陽光と、傍らに立って私を見下している可愛らしい女中(メイド)の視線を浴びながら。

 無論、彼女に私は見えていまい。これもまた習慣の一つだ。私がまだ生きていた頃の。

 だが、それでも嬉しい。私は唇を吊り上げると、爽やかな気持ちで朝の挨拶を述べる。一瞬女中の眼が細まり、笑みの形を強めた気がしたが、眼の錯覚であろう。しかしながら、喜ばしい事に違いは無い。

 そのまま服を置いて……これもまた習慣であり、ここではその様な事が多々行われている……去って行く女中を見送った後、私は手早く身支度を始める。栄養になんて必要無いのだろうが、私の魂は、滋養溢れる朝食を口にしたくてウズウズしているのだ。

 寝間着から清潔な衣服に変えて、廊下に出ると、幾つも並ぶ窓より朝の光が入り、格子状の影を落としている。私はそっと外を見た。冬の真っ只中にしては良い天気だ。草ばかりが生えて家一つ見当たらない平原には昨夜振った雪が残っており、太陽に照らされて白く反射している。幽霊と成ってこの屋敷から離れる事の出来ない私に、その光景は絵画的な美しさと切なさを想起させた。

 あれはもう届かないものだと解ってはいても、それでも尚、手を伸ばしたくなる。

 私は暫くの間じっと佇み、懐かしい感覚へと身を任せた。

 だが何時までもこうしている訳にも行かない。私は食堂に向けて再び歩き出した。

 それ程時を経ずして到着したそこには、既に朝食が用意されていた。二枚のバタートーストに焼きベーコン、ソーセージ、目玉焼きに焼きトマト、それからここに来るまでの間に程良い温度になったミルク入りの紅茶。何十年も変わる事の無い定番の品々だが、それが今も尚出されているのはある種の慰霊の為だろう。解らずともあの女中は私を感じている筈だ。全ての習慣の理由はそれに尽きる。だが、こう美味なる食事を並べられては消えるに消えられない事は解っていまい。

 私は長方形に伸びる机の端まで行くと、並べられた料理を前にして席に座った。傍らに置かれている新聞を手に取りつつ、カップを口元へ。温度も飲み頃だが、その味も同様だ。私は喉を唸らせると、他の品に手を伸ばした。新聞を読みながら物を食べるなんて、と生きていた頃には良く妻や女中から注意されたものだが、死んだ今位、多少甘く見て貰おう。どうせその妻も、もう居ないのだから。

 私は記事に目を通しながらに、薄く切られたトマトを口元へ運んだ。質の悪い紙の上に刻まれた文字が示すのは虚実綯い交ぜの『事実』であり、求職人を含む有象無象の商品を宣伝する広告だ。これまた相変わらずのものであろう。口の中一杯に広がる真っ赤な果実の瑞々しい味わいがそうである様に。いや、それは違うか。トマトは昔、毒があるとされ、専ら観賞用だった。或いはこの新聞というものも、何時か廃れる日が来るのかもしれないが。小鬼(ゴブリン)の一団が帝都で人権獲得の為の行進をしたという記事や、妖精のエキスを使ったと謡う回春剤の広告などを眺めるに付け、私は深くそう思った。

 それからバタートーストに掛かろうとした私は、毎度浮かぶある疑問に想いを馳せた。服装もそうだが、こうやって私が食事をしているのは、端から見てどの様な感じなのだろうか、と。

 私は幽霊である以上、人に触れる事は出来ない。だが、物には触れる事が出来る。となると、生者には服や新聞が勝手に動いたりしている風に見えるのか。一時期この国の首都を恐怖に貶めた、あの狂気の科学者の様に? 食べた物も途中までは中空にあって、血肉となる過程で消えるのか。それとも、私同様に見えなくなっているのかもしれない。或いは、そもそも物に触れているという事が私の気の所為であり、実際は何も動いていないのかもしれない。結局どうなのかは、生きている人間と会話出来ない私に知りようが無かったけれど、それでも興味深い事ではある。

 というのも、食堂には度々女中が来るからだ。食器の整理やら何やらで忙しなく動き回ってはいるものの、彼女の視界の中には私が居る場所も入っている。直接的に私は見えていなくとも、しかし間接的にはあり得る訳だ。ただ、その彼女は何の反応も示さずに、自分の仕事へ従事している。それが意図してなのか、本当に何も見えていないのかは解るものでは無く、時折私は、酷く子供っぽい悪戯心を震わせて物でも投げて見たくなるのだけれど、流石に願望のままに止めて置く事にしている。それがこの身を貶めた遠因であるのを重々承知する私は、出たり入ったり、彼方へ向かったり、此方へ行ったりする彼女に眼をやりながら、ただ静かに紅茶を飲み干した。


 朝食が済んだ後は、専ら自室で一人チェスをするのが私の慣わしである。生きていた頃はもっと気忙しくて出来なかったが、今は逆に時間が有り余っているのだ。それに、一人でやるのは得意だ。私は自分の息子と、とうとう一度も手合わせする事無かったのである。

 冬の寒々しい、だが朝の光を受けて心地良く吹く風が入る開け放たれた窓の下で、椅子とテーブルを持って来る。テーブルの上には、少年時代からずっと使い続けてきた古めかしい白黒の盤があって、勝敗は黒の方が優位を築き始めていた。だが、まだまだ解らない。試合は始まったばかりであるからにして、これから白の方が巻き返す事も充分在り得るのだ。ただ、そのどちらの駒へも指示する棋士が私である以上、早々打開出来る手に気付けないのも確実ではある。

 昔からそうだった。私は、一度こうと決めたものを変える事が出来ず、頑なになってしまう質がある。自分すら驚く意外性など持ち合わせてはいなくて、それ故に破産したと言っても過言では無い。

 私が必死に唸り、考えていると、女中が入って来た。この時間にここへ来るのは珍しい事だが、完全には入って来ない。開けた筈の無い窓か、或いは勝手に設置されているチェス盤に驚いているのか、そのいづれであれ、扉の前に立ち、じっとこちらの方を見ているばかりだ。

 これは不味い、幽霊の癖に少しばかり調子に乗り過ぎたか、と私が罰の悪い思いをしていると、彼女はつかつかと歩み寄って来た。何をするのかと見ていると、行き成り窓を閉めてしまうでは無いか。折角清々しい空気を入れていたのに、と文句を言うよりも早く、更に女中は動いた。手を伸ばし、白い方の一つを掴むと、すっとそれを前へと進ませる。私が考えも及ばなかった場所へ。

 私は唖然とした。その一手は、これまでの闘いの全てを根底から覆し、沈み掛けていた天秤の片皿を一気に押し返す重みを持ったものだったのだから。顔を上げると、薄っすらと口元を緩めている女中が居る。そういえば何時だったか、思い出せない程の昔、彼女にチェスを教えた覚えがある。それが今になって返されたかと私は、去り行く女中の背中を見詰めて、唸り声を上げた。同時に、先の疑問の答えが導き出されて、嬉しく思う。仮令見えずとも、確かに繋がっているのは、解ったのであるから。

 午前一杯を黒の一手が為に延々悩み続け、結局匙を投げた私は、食堂にて用意されていたコールドチキンと白ワインの軽い昼食を取ると、書斎へと向かった。

 午後からはここで当て所無い知識の探求を行なうが、日課である。私の様な幽霊は良く書斎に現れるというけれど、それもまた良く解る話だ。この場所に囚われていると言ってもいい状況で、時間だけは無闇にあるとなると、やる事は殆ど決まってきてしまう。

 私が書斎に入ると、長い間に堆積された埃と、大量の本自体から発せられる古い匂いが鼻腔を擽った。壁一面に私の背よりも遥かに高い本棚が置かれており、奥には貴重な書物が鍵付きの硝子棚に入れられている。私の祖父は熱心な蒐集家だったらしく、これらはその半分以上が彼の物である。幾つかは蒐集家仲間やその手の倶楽部に寄贈してしまい、また父や私が入れたものもあった。

 その中の一冊、先日からずっと読み続けている本を取ると、私は窓辺に置かれている書斎机に座った。栞代わりで使っている銀杏の押し花を印に読み終えた頁を開けば、後は一心に読み耽るだけである。

 現在、私が読んでいるのは、幻想怪奇を讃える作品を手当たり次第に持って来た詩華集(アンソロジー)だ。この時代に生きる人間の例に漏れず、私もそう言った話が好きなのだが、幽霊が幽霊の、もしくはそれ以上の怪物が出る話を読んで愉しんでいるというのも妙な話ではある。尤も、吸血鬼どもや人狼連中も、『カーミラ』や『ドラキュラ伯爵』の脚色された史実を読んで、笑っていると思うから、まぁ構わないだろう。

 余計な思考を頭から追い出しつつ、私は読書に集中した。今読み進めている作品は、一人の少女と共に屋敷で暮らす事となった、ある記憶の無い男の話である。自分の名前すら覚えていない哀れな彼は、彼女と接する中で安らぎを覚えるのだけれど、真実を求め出した事で少女を拒絶し、やがて破局を迎える。

 ルイス・キャロルが数十年前に発表した『不思議の国のアリス』的な雰囲気を何処かに感じさせるその物語は、なかなかどうして、私の気に入った。幼女趣味なるものは持ち合わせてなどいないが、見目麗しい少女と二人だけで、何の心配も無く過ごせるのならば、本望というものである。だからこそ、無意味な好奇心に駆られて平穏をぶち壊しにする主人公には、嘲りと哀れみを感じたのだが。

 何故人は真実という名の虚偽を求めずにはいられないのだろう。

 今目の前にあるものを現実として受け入れてしまえば、何も怖くは無いというのに。

 その様な僅かに憤りを含む感想を抱きながらに、次の話へ向かおうとすると、背後で気配を感じた。

 スコーンと紅茶とジャムの小皿を置いた盆を手に持って、女中が入ろうとしている。私の存在を感知したのだろうが、なかなか良いタイミングで来てくれたものである。懐中時計を取り出して見れば、もう時刻は三時、午後のお茶の時間であり、若干疲弊した脳髄の魂は、何か甘い物を求めていた所だ。

 本を脇に退かして、書斎机に盆を置かせた私は、ありがとうと彼女に言った。どうせ聞こえてはいないが、それでも言っておきたかったのである。私が、何時までここに居られるかは解らないが、しかしその間は、この世界を壊さずにいたかったから。

 女中の丹精な、だが表情の乏しい顔の中に、ほんの少し笑みに似た影が見えた気がした。恐らく私がそうだと思いたかったから見えたに違いないけれど、それでも私には喜ばしいものであった。


 気が付けば太陽は沈み始め、黄昏時の薄紫色をした残光が窓から入って来る。

 丁度良い案配で詩華集を読み終えた私は、そっと閉じて棚に戻すと、席を立った。

 廊下に出ると、香ばしい匂いがここまで漂ってくる。

 その匂いに釣られて食堂に向かうと、案の定夕食の準備が整っていた。

 細切れにしたランプステーキを下地に添えて、綺麗に洗われた鳩を生地にして覆ったパイ。野菜と一緒に良く煮込まれた牛肉のスープ。添え物には豚肉とえんどう豆を一緒に茹でたプディング。飲み物には、白では無く、年代物の赤ワインが催されている。

 鳩のパイは私の大好物であり、生前、女中が良く作ってくれたものだ。解っているじゃないかと私は微笑み、今は台所にでも居るのだろう彼女へ感謝の念を贈ると、席に着き、食事を始めた。

 良く食べ、良く飲み、そして、それらを心の底から愉しむ。実に幽霊らしからぬ事だ。しかし私にとっては、幽霊だからこそのものでもある。生前は、ここまで何の懸念無く物を食べる事は出来なかった。それに、現に旨いのだから仕方が無いでは無いか。文句を言うならば、私では無く、女中に言って貰いたいものである。

 あっと言う間に私が皿を空にして行くと、その彼女がやって来た。頃合を見計らっていたのでは無いかと疑いたくなる具合で、紅茶を淹れて来たのである。存在しない筈の胃袋を満腹にした私は、テーブルに上の置かれたカップを取ると、今度はじっくりと、ゆっくりと、唯の一杯を飲んだ。濃厚な味をすっかり堪能した後で、豊かな渋味と甘味を持つお茶は実に在り難かった。

 カップを空にした私は、そのまま自室に向かう。

 直ぐに服を脱いで寝間着へ変えると、ベッドに入った。私の一日の終わりは早い。晩の食事が済めば、直ぐに就寝する様にしている。やはり死人らしい行為では無かったが、何時まで起きていても暇なだけだ。照明は使いたく無いし、それならばさっさと寝るに限るというものであろう。

 それに夜は余り好きではない。何か説明出来ないが、それは私の中で昔からある感覚である。事もあろうに幽霊となってからますますそれが強まっていた。何故だろう、と自分でも思っているのだが。

 シーツに包まり、そう訝しがっていると、足音が聞こえた気がした。誰かが廊下を歩いている、と思う間も無く瞳を開ければ、目の前にあの女中が立っていた。朝の様に微笑んではおらず、ただ無表情な顔で。

 ただこれも、度々行なわれる行為ではある。彼女は何時も夜中になっては、ここを訪れるのだ。

 そうして見下ろす女中からは、夜の恐れにも似た、言い知れぬ哀しみを感じさせる。何が哀しいというのか。思わず私が手を伸ばしても、所詮幽霊の手だ。透けて抜けるばかりで、一向にその身に、服にすら、触れる事は出来ない。こういう時こそ、この身が嘆かわしい。その悲哀に思い至らぬ自分も。

 或いは女中が案じているのは、私自身なのだろうか。馬鹿な、と思う。下らぬ事業に手を出して家を潰し、妻と息子には逃げられ、自ら毒を服した挙句、屋敷に居座り、彼女の世話になっているというのに。

 どうなのだろうかと、私は女中を見た。動かなくなって久しい胸が痛む。もし仮にそうであるならば、さっさと止めて、この屋敷から出て行って欲しかったが、どれだけ言っても女中の耳には届かない。

 やがて振り返り、去って行く背中へ、私は無意識に手を伸ばしたが、止まってくれる訳が無く。

 独り取り残された私は、やがて訪れた睡魔によって、静かな眠りへと沈んで行った。


 そして朝となれば、昨日の夜は何処吹く風に、陽光と女中の微笑みが私の顔に差し光る。

 私が幽霊になって初めて見た光景そのままに。

 嗚呼あれは所詮一時の、と安堵しながら、私は身を起こした。

 着替えを受け取り、身支度を始める。

 今日もまた始まるのだ。

 大事な物を失ってしまったこの私と、それでも尚残ってくれているこの女中との、二人だけの一日が。

 それはまた明日も続くだろう。明後日も、明々後日も、その先も、これからも。

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[一言] 幽霊であるはずの主人公が、とても生き生きしているさまが面白いかったです。
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