北風と太陽
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頬杖をついたカウンターに、ため息がこぼれた。
目の前の酒棚は大きさだけは立派だが、酒瓶どころかグラス一つ見当たらない。
紫煙がくゆる小さな灰皿の脇には、〈北風と太陽〉と小さく書かれたプレートが一つ。
「まあ、店を閉めるにはいい日だよな。色々片付いたところだし、仕事納めだと思えばさ」
広さだけはそこそこある、思えば喧嘩と怒号の絶えない酒場だった。カウンターから眺める景色は、良く見慣れた演奏前のライブハウスと言えなくもない。
片隅に寄せられた、足の折れた数脚の椅子と、天板が砕き割れているテーブルを眺めても、浮かべる苦笑いは思ったよりも軽やかだ。
チリリ、と控えめに抑えていた念話の着信音が鳴った。慌てずメニューに浮かんだ〈奏羽〉をタップすれば、朗らかな突っ込みのような勢いで耳元にあふれる。
「なあなあヒヨリ! 良かったらお弁当の配達しようかなって思うんやけど! ……えっと、もうお夕飯は食べてしもた?」
言い出した傍から萎れていく語尾に、思わず吹き出してしまう。
「まああれだ。お茶と、試作のお菓子ぐらいしか出せないけどな。それでよければ取引成立ってことで」
分かった! という心底嬉しそうな弾む声を残して、念話はあっさり切れた。ヒヨリは一つ背伸びをしてから浅葱の振袖にたすきを掛けると、少し唇を緩ませながら魔法鞄からコンロと薬缶を取り出した。
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「ヒヨリ、誕生日おめでとう~! ってこれ、何事? ……えええええ??」
扉を開け放った黒髪の青年が、手に持ったローブと風呂敷包みを掲げた状態で固まった。
ヒヨリの城であったバー〈北風と太陽〉は、店に入ってすぐのところには四方にロープが張られたリングが設置され、実験・賭け事・調停・私怨、さまざまな解決ごとを観覧するための椅子4席の丸テーブルがぐるりと囲むように配置されていた。
それらはほぼすべて残骸となって壁に寄せられている上に、何やら薄く小さな楕円のステージには、演説に使うような台には水差しとコップが置かれている。
そしてそれ以外の場所は、まさに渾沌といった惨状だった。
床には鮮やかな緋毛氈が敷き詰められていて、所々に畳のようなもの、茣蓙のようなもの、峠の茶屋に置かれているような竹製の長椅子までもが入り乱れている。
そこかしこには手書きラベルの茶色い一升瓶が立ち並び、懐紙と黒文字の乗った小皿が積み上げられ、柄杓が突き立った茶釜からはまだ湯気が立ち上っている。
そこまで目にした奏羽は、一度目を瞑って手でこすり、ゆっくり二度見してから目を見開いた。
「えっ、もしかしてヒヨリの誕生会やってたん? で、でもなんか違うような、そうとしかいえないような…… なにこの状況」
カウンターで丁寧に茶器を揃えていたヒヨリが顔を上げると、ああ、と何か思い出したように呟いた。
「そういや、明後日はもう年越しだったな。年末が忙しいのはどこも同じだよなぁ」
「ヒヨリ…… 誕生日と新年、どっちもきちんと別々にお祝いせんとあかんよ? そらまあ、ここ何年かはうちも忙しうてご無沙汰してもうたけども!」
だからちょっと奮発してみたと掲げた風呂敷包みには、〈海洋機構〉謹製・松花堂弁当(海鮮)というタグが燦然と輝いていた。
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締めのご飯は熱々の海鮮釜飯、最後に柚子シャーベットで食事を終えれば、しばらく黙ったまま味わっていた二人は同時に深く息をついた。
「いや、これはすごいな。どれもこれも味は絶品、弁当箱に仕込んだギミックも実用的な上に面白い」
「ほんとになぁ…… これ、実はコネで何とかゲットした、食後レポート10枚付きの円卓発行クエストやったんや。いや、高倍率なの分かる出来やなぁ」
奏羽は腕を組んで唸っていたが、ちらりと壁際を見やったところで、ヒヨリもとうとう諦めた。
「まあ、色々あってな。今日の午前中、〈円卓〉に仲介を頼んだオークションをここで開いたんだ」
「ヒヨリ、自己破産でもしたん? それで酒場の備品を…… って、明らかにテーブル壊されてるよね?」
まあ最後まで聞けと、ヒヨリは軽く持ち上げた両手をひらひらさせる。
「放出したのは、手持ちの〈着物〉だな。時節柄初詣が控えていて、やれ二年参りだ、書き初めに初釜だ、挙句の果てにダンジョン初めにも着ていきたいとかなんとか。色々込々の価格スタートだったから、どれもこれもアフターサービスだろってねじ込まれてさ」
「それでバケツに刺さった箒みたいな筆とかあるんやね」
そこだけ畳スペースが空いていたのは、模造紙サイズの何かが広げてあったためらしい。確かに壁際には〈着物〉を掛けていたらしい衣桁や、少し背の高いハンガーラックが寄せてあったりもする。
「まあ、自分で着付けとかできないと遠出はちょっと心配やんな。着付け教室してる間にお疲れ様会? に雪崩れ込めばこうなってもおかしない…… いやいや、それテーブル壊れてるの、関係ないやん。それに〈装備品〉ってメニューから装備でいけるし、サイズ補正も付いてて安心って、この前言ってたやん?」
納得しかけた奏羽が、慌てたように首を振った。ヒヨリは舌打ちをし掛けるが、からかいなど微塵もない目線に気づくと、気まずそうに目を伏せた。
「〈色々〉の守秘義務に入ってる内容だから他言無用な。……ある方法で型紙から仕立てた〈着物〉は、ただの布みたいな扱いになるらしい。だからそれを身に着けようとすると、普通に着付けが必要になる」
「……それのどこにメリットがあるん?」
「着崩したり、多少開けたり出来る。そういうの、自分で調整できないと困るだろ?」
「その理由は納得できるけど、それだけじゃないよね」
止まらない追及に、眉間のしわを緩めながらも渋々続ける。
「……ちょっと前に、〈痛友禅〉を作りたいってチャレンジャーがいてな。仮縫いとか地入れとか、絵を描く以外の工程を手伝わされたんだけど、どうしても色が乗らないとか泣きつかれてな。こう、型紙にちょっとした細工をした訳だ」
「待って待って。それってもしかして、ちょっとお高い材料のインクとか羽ペンとかを?」
「使ってみた。それで伏せ糊っていう、色をはじく糊が乗りやすい生地に変えてみたところ、何とか絵入れは成功した訳だ」
口調に笑いがにじんでいたが、目を逸らしたままの顔は能面のようにまっさらだ。
「……それ、普通にあかん奴やん。〈鎧〉扱いにならない、重ね着できる〈鎧〉が作れるってことなんやないの? それに生地を変更できるんや、そこそこの素材を使えば、効率厨が黙ってないくらいの……」
奏羽はそれが打ちこわしの原因であると悟ったのか、ヒヨリが手元で回しているプレートに息を呑んだ。
「まあそこは、こっちも黙ってなかったからな。あわや抗争かってところで仲裁が入って、喧嘩両成敗。守秘義務とか諸々込みのオークションって形で〈円卓〉に介入させて、無事に解決したっていうのが事の顛末だな」
それ無事っていうの、と顔に貼り付けたままの奏羽に向けて、指を立てながら晴れやかな笑みを浮かべた。
「協力してくれたギルドってな。西……」
「納得した。お洒落に対する女子力(物理)には、トップギルドだって即撤退するしかないやんな」
「〈物理〉っていうより、こう、もっと洗練された〈武力〉って感じだった」
二人の笑みは軽やかながら、真実を狙い撃った畏怖がにじんでいた。
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「ところでな、ヒヨリ? 〈西風〉に接触したってことは」
「ああ、例の絵師の奴の縁でだな。しばらく護衛は受けてもらえたし、旅団にも誘われてる。入るかどうかは、まあ、検討中ってやつ?」
無表情ながら、ほんのりかすかに、早口になった建前をぶった切った。
「……ソウジロウ君には惚れちゃった?」
「なっ!?」
盛大に噴き出してせき込んだヒヨリを見て、真面目に作っていた顔をにやりと緩めた。
「そうかぁ、ヒヨリでも落ちるのか」
「そういうんじゃない! 世話にはなったけど、それだけだ!」
いやいやいや、と顔の前で奏羽は手を振って、満足そうな顔を作り直す。
「絶対それ以上のことがあったんやろ? 目立つことやらかしたんや、絡まれたり面倒くさいことになったとこ、颯爽と解決してくれたとか! どうせ仕事納めだからって飲んで絡んで、転んだふりして抱き着いてしもた? それとも立てなくなってお姫様抱っこ? あ、もしかして調子に乗ってみんなで悪代官ごっこまでしたとか?」
ぐぬぬと拳を握りしめてたヒヨリは、絶対零度の視線を作って吠える。
「ねえよ! 最後のとか、真っ昼間から、ありえないだろ?!」
「最後のは、ねぇ」
ほほーん、とだらしなく何度も相槌を打つ奏羽に、ついにヒヨリは指を突き付けた。
「っていうか、俺のことはどうでもいい! お前、それよりあいつを野放しにしておいて大丈夫なのか? 着いて早々、引っ越しの原因作ったんだろ?」
何を口から出まかせを、という笑い飛ばそうとしたまま、奏羽の動きがぴたりと止まった。
「……は? それ、何のこと?」
「打帆だよ。お前がここに置いていったブツ、全部持ってたんだぞ? それで何かやらかしたんじゃないのか?」
「……置いていった、ブツ?」
それなんだっけ、と途中で止まった思考が何かを思い出そうとしている。
「ほら、大皿とか、調理器具とかだよ」
「ただの調理器具…… やないやつ?」
こてり、と首を傾げた相手に、ヒヨリは眉をしかめて続ける。
「〈不溶の樹氷〉を削りだした大皿に、〈ワイバーンの爪〉を使ったペティナイフ。あと〈炎鞭〉と〈マンティコアの鬣〉を織った布で組み合わせた鍋敷きとか、〈ベヒモスの表皮〉を使ったおろし金とか。武具に使うには小さいけれど、なんか勿体ないからって、ほとんど加工せずにでっちあげたあれだよ」
「武具にも触媒にも小さいけれど、品質は高いし、レイドドロップも混ざっている?」
そうだな、とうなづけば、今度こそ奏羽が壊れた。
「……はぁぁぁ? 〈従者召喚〉の触媒になるかもだから、何かわかるまで預けてた奴やんか!」
「だから、打帆がそれを掴んだんだろ? だから試してみたと。……ああ、でも来たのは今朝だから、時間は合わないのか?」
今朝と聞いて明らかにほっと胸をなでおろした奏羽に、無慈悲な宣告が突き付けられた。
「なら、これから? 今晩にでも起こるんだろうな」
「ええええええっ?!」
全く否定できないと愕然と顔をひきつらせた奏羽に。ヒヨリはのんびりと、ご愁傷様と声を掛けて湯呑を引き寄せた。