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記憶の魔女  作者: 機月
2/3

研究棟

 人気のない裏通りにも、大聖堂の鐘の音は響いていた。

 立ち並ぶ雑居ビルは雨埃の跡こそ残っていても、欠けている窓は思いの外少ない。

 一際のっぺりと四角い建物の最上階で、カーテンが小さく揺れていた。

 冬の空を映したガラスの壁に、ただ一つ開いた窓。

 生成りのドレープがゆっくりと、風をはらんだ帆のように柔らかい弧を形作った。明かりが中央に灯り、赤みを帯びて黒ずみ、目玉のような模様を浮かび上がらせる。

 拮抗は、ほんのわずかの間だった。

 くすぶる煙よりも音よりも速く、焼け焦げたカーテンの真ん中を紫電の奔流が貫き疾った。

 勢いよく引かれた暗幕に、あふれた叱責も有耶無耶にこもる。

 他の窓越しに映る影、それを鮮やかに映し出す幾度かの閃光。

 一分も経たずに騒動は収まり、その間もずっと響いていた低くうなる鐘の余韻までもが途切れた。

 壁を灼かれた向かいのビルは静かなままだった。

 カーテンの燃えかすが降った路上からも、怒号や悲鳴は上がってこない。

 薄日が差し始めた路地にも辺りの廃墟のようなビル群からも、話し声どころか人の気配すら届かない。

 カーテンに張り付いていた人影が、その隙間からそっと小さな手を差しだす。そのままゆっくりとハンドルを回し、ガラスの入った窓をしっかりと締め切った。



 薄い白磁のカップとダブルクリップで留められた書類が、ガラス天板のローテーブルの上でわずかに影を作っていた。

 四方に並べられたソファーは簡素な木組みだが、目の粗い生成りのクッションは暖かそうに柔らかそうにふっくらしている。

 ソファーの1つが、乱暴に沈み込む巨漢を静かに受け止めた。

 袖をまくった二の腕が異様な迫力を振りまきながら持ち上がり、そのまま髪をかきまぜる。

「見事と言うほか無いな。きっちり書式が定まっていて、それがすぐ出てくるところがまたすごい。どんな手品を使ってるんだ?」

 テーブルの紙束を引き寄せぱらりとめくり、これもそうだと、表紙に小さな銀のクリップで止められた紙片を取り外す。

 表書きはシンプルに『〈錬金術師〉オラトリオ』とあるだけだが、その裏には硬質な線で肖像画が描かれていた。墨一色だが、目の前に座る男の淡泊な調子や雰囲気まで、程良く掴んでいる。

「まだまだ試行錯誤の連続ですが、ミチタカ様にそう評価していただけるなら職員の労苦も報われるというものです」

 男は薄い瞳を更に細め、責任者のオラトリオですと名乗って頭を下げた。白衣越しにさらりと流れた亜麻色の髪は、その色合いも柔らかさも、小春日和のように穏やかだ。

 ミチタカは渋い顔のまま、紙束を丁寧に繰り始める。

 どのページも見やすいように色の付いた枠で区切られていて、字体も適度に大きく、程良く崩されている。

 見出しには事象、原因、報告先など不穏な単語が散らばっているが、数ページごとに添付された見取り図は多少乱れながらも正確で、矢印や走り書きからは暢気な報告書にはない緊迫感が伝わってくる。

 向かいからこぼれる唸りにようやく気付き、オラトリオは細めていた目を瞬かせた。だが鳶色の瞳はすぐにその輝きを増す。

「書面に記載するほどの被害は出ておりません。棚が一つ倒れましたが、ポーション職人方の研鑽の賜物でしょう。人的な被害となると更に軽微です」

 日頃の行いが良いからですねと、オラトリオは晴れ晴れと頬まで緩める。

「被害は軽微、か…… いや、そうなるんだろうけどな」

 ミチタカは何かこらえるように、沈痛な面持ちのまま腰に吊した工具入れから丸めたクリップボードを取り出した。厚手でしっとりと目の詰まった羊皮紙が数枚挟まれていて、めくる拍子に何かの透かしが薄く揺れる。

「アキバの街、〈ロデリック商会〉傘下、有志による占有物件〈研究棟〉。どの部屋も清潔に保ってる。廊下から見えるように改修済み、使っていない部屋は封鎖済み」

 几帳面な文字で書かれたリストは、いくつか取り消しの線が引かれている以外、すべてチェックが付いている。

「管理も徹底している。機材や設備は全て申請登録制で、中身が見えない什器や不穏そうなケージ類は皆無。間取り的に何か隠せそうな場所がないのも分かった。薬品類は鍵の掛かった棚に仕舞われることになっていて、実際に全部そうなっている。実験室も隔離されていて、安全性は担保されているといっていいだろう。避難路も非常扉も、きちんと機能することを確認した」

 その指摘の一つ一つに、オラトリオは深く大きく、熱心に頷く。

 ミチタカはとうとう、げんなりした表情を隠すのを止めた。

 紙束をまとめてローテーブルに放り投げると、ソファーに背を預けて天井を仰いでしまう。

「あのなあ。普段はあり得ない、今日限りのイレギュラーだったとしてもだ。いやだからこそ、だろ? 視察の最中に、しかも街中の施設。……出ちゃまずいだろう、こいつは」

 ミチタカが人差し指を突きつけた書類は、鑑定結果と書かれたページを開いていた。

 注釈と共に描かれているのは、丸っこいふわふわの毛並みを持った、リスとネズミのあいのこの様な小動物だった。胴は少し長めで、丸まったしっぽは伸ばせば同じくらいある。

 けれどもしっぽは茨をより合わせた鞭のようだし、牙や爪も雑食にしては明らかに大きく鋭く、禍々しいくらいに反り返っている。

 幾分自信なさげに〈亜種〉と添えてあったが、イラストのタイトルは〈棘茨イタチ(ブライアーウィーゼル)〉。小型とはいえ攻撃性と殺傷能力を備える、れっきとした〈ノーマル〉ランクのモンスターだ。

「……まずい、ですか」

 独り言にしては大きくつぶやき首を傾げる様子を、ミチタカは指の隙間から認めた。顔を覆っていた手のひらの奥で太い眉が跳ね上がり、沈み緩んでいた体全体がゆっくりと引き絞られてゆく。

「今日は安全な施設だってアピールする〈海洋機構(スポンサー)〉の視察だろ? 俺が来たんだ、〈円卓会議〉の〈監査〉にもなるって計算してたんじゃないのか?」

 オラトリオは視線を合わさぬまま、黙って書類を手に取ってめくり始める。

「……まさかとは思うが、実は何も考えてないだけってことは」

「いえ、その様なことは決して。ただどちらを優先するかで対応が変わって ……来ませんね」

 目線を合わせたそばから、オラトリオはそのまま何度もうなずいてみせた。

 口を開き掛けるミチタカを手で制し、二本の指を立てる。

「信頼の置ける組織から二系統のクエストを発行していただけないでしょうか。一つは今日の監査の追調査、つまり訓練施設としての妥当性を測るという名目はそのままのものです。時期や規模はお任せしますが、告知だけは早めに、しかも大々的に行っていただくのがよろしいかと」

 ミチタカの胡乱な眼差しには、折角ですので宣伝を兼ねる方向でと悪びれなく受け答える。

「もう一つは封鎖区画の開封と、おそらくその先に続く施設の探索となります。こちらは少なくとも生産がメインではない〈冒険者〉を、速やかに派遣していただきたいのです」

 オラトリオは開いた見取り図の1F北東角、黒く塗りつぶされた箇所を指した。

 部屋としては少し小さめだが、設備に関する数やサイズが一切記されていない。階段や水場からも遠く、単なるデッドスペースであるといっても不自然ではない。

 だがじっとその場所を見つめたミチタカは、ゆっくりと視線を外しながら口を覆った。

「確証は、ないんだろ?」

「はい。この施設の巡回状況と優先度を考えますと、ここから調べるのが最善というだけです」

 ミチタカは冷め切ったコーヒーを一口啜って、そのまま呷るようにカップを空けた。空いた手で胸と尻のポケットを探り掛けて動きを止め、結局深々と息を付く。

「それは地下に、いや、下水道に繋がる施設なんだな?」

「確認はしておりませんが、十中八九。各階をつなぐダストシュートの廃棄口と焼却炉が設置されていまして、残った灰を貯水槽の水を使ってどこかに流す仕掛けになっているようです。一度も使わず封鎖しましたが、部屋には目新しい規格も部品もありませんでした」

 投入口も塗り込めてありますと、各階の見取り図にも数ヶ所ずつ印を付けていく。

 ミチタカは空のカップを手のひらで転がしながら、薬品は換気とか怖いよなと人事のように呟いている。

「当施設だけで対応するのが筋かもしれませんが、職員は訓練を始めたばかりの〈大地人〉が大半です。それを差し引いても、アキバの街全体に波及するかもしれない事態、出来るだけ穏便に事を収めたいのです。もちろん当方も協力を惜しむつもりはありません。必要とあれば施設を明け渡すこととまで考えています」

 重ねて問われ、ミチタカはうつむいたまま、ちらりと視線だけ向けた。

「動揺を押さえる効果もある。建物としての耐久性が心配だが、見通しが良いというのも大きいだろう。大っぴらに本部を構えられるのは助かるが…… いつまで掛かるか分からんぞ?」

 念を押されても、オラトリオは簡単に頷いてみせた。

「これがもっとも効率的なのですから、あとは些事です。貸したものは返していただきますし、実績を作る機会を逃す気もないというだけです」

「まあ、前のめりも悪い事じゃないよな。……こんなに早いとは思わなかったんだが」

 ミチタカが深く息をついて、気の抜けたつぶやきをこぼした。眉間だけでなく体全体を強ばらせていた力が抜け落ちる。

「分かった。今まで貸してた分だ、ありがたく借りることにしよう」

 両手で腿を威勢良く打つと、箔入りの羊皮紙をクリップボードに挟んで万年筆を走らせる。

「まずは倉庫と人員を手配だな。申請はこっちで手を回すから、必要なものをリストアップしてくれ」

 走り書きを確認して、互いにサインを入れる。そのまま立ち上がって握手を交わすと、ミチタカは早速部屋を大股で出ていった。




 書面を見直すオラトリオに、湯気立つカップが差し出された。

 軽く頷きサインを入れてから、脇に立つエプロンドレスの女性に目を向ける。

「ソウナさん、いつもおいしいコーヒーありがとうございます。これはハリイさんにお渡しください」

「かしこまりました」

 小さな笑みと丁寧な会釈で応え、ソウナはワゴンを押して部屋を出る。

 その若草色のシルエットは品よく柔らかく、肘や肩を革の防具で絞られていても軽やかで機敏さを失わない。

 もう次の書類を眺めながら、オラトリオはカップからくゆる香りに頬をゆるめていた。その合間もペン先はインク壷をつついていて、手を戻すと同時に罫線を片っ端から埋めてゆく。

 扉が閉じてすぐ、薄い壁の先でワゴンが止まった。小さな話し声が加わり、すぐに悲鳴に代わる。

 数歩の踏み込みに続いて扉が一息に引き開け閉められ、その騒々しい音にソウナの強い声が被さった。

奏羽(かなわ)さん!」

「オーちゃんオーちゃん! さっきまでミチタカさんが来てたんやって?!」

 もこもこにふくらんだ紫紺のローブが、その首元の留め金をもどかしそうに引っ張りながら飛び込んできた。ローブの中から一斉にあがった何やら抗議と非難を宥めつつ、向かいのソファーの背に回り込んで手を突いて、そこから乗り出しても勢いは止まらない。

「何て言っとったの、それともご褒美貰えたん? 溜まってる研究費の申請通してくれたとか、〈研究棟〉の権利書譲ってもらえるとか、いやいや、いっそポケットマネーで買い取ってくれたとか!」

 口を挟む間を与えずに急かしながら、フードを後ろに落として固めてあった巻き毛をかき混ぜ、背中と首にぶら下がる白い四つ足の獣たちをあやしながら、なお急かす。

 良く日に焼けた顔は驚きと喜びと期待にあふれていて、目元はもうこぼれそうなほどゆるんでいる。

 だがオラトリオは目も上げずにペンを走らせ続け、金釘のような、けれども奇妙なまでに揃った文字を書きながら無情な一撃を繰り出した。

「即刻出て行くことになりました。日が暮れる前にはどうあっても第一陣を出すようにと、しっかりと念を押されたところです」

「……や、そんなところやないかって。分かってたけどさ、うん」

 ローブの隙間から小さな獣が顔を出すと、奏羽のローブはするりと結び目が解けて地面に落ちる。

 それと一緒に快活さとか生気とか、陽性の気配は全て抜け落ちてしまった。


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