月神の館にて(月神視点)1
長くなりそうなので途中で切ります。
天橋国は、神の国。
神が統治し、神が住まう国。
あぁ、麗しの、神の国。
けれども歪んだ神の国。
正常と、清浄の極みを求め、願い、満ちて、満ち満ちて、そうして歪んだ、神の国。
この国の頂点に君臨するは、三皇子。
生み出したるは、真名を呼ぶことも許されぬ、高貴なる神。
かの神、清大父とも呼ばれる、高貴なる神が産みし三つ子は世界を支配する。
高貴なる神が与えた世界を支配する。
昼を支配するは、知を極めし陽皇。
夜を支配するは、美を極めし夜皇。
海を支配するは、武を極めし海皇。
歪んだ国の、歪んだ神が、今日も世界を支配する。
部屋には、琵琶の音が静かに流れる。
琵琶を奏でる男の歌は、朗々と部屋に満ちている。
「嫌味な歌はやめいよ、兄者」
けれども、唯一の観客である男は低い声で不満を述べた。
鍛え上げた体と、太い眉の下の鋭い眼光、大きな鷲鼻に不機嫌そうに真一文字に引き結んだ口元の、猛々しい武者という言葉を体現したような男。
その男に兄者と呼ばれた男は、手に持った琵琶を脇に置いた。
夜皇である。
ここは、天橋国の、夜皇の館。
「何だ、海。
私の歌は気に入らんか」
「気にいる訳があるものか。
歓迎に一曲、なんぞというて、中身はわしらの悪口ではないか」
じろりと睨みつける、観客だった男――弟の海皇にははは、と笑いながら、二神で囲んだ卓にのせてあった自分の酒盃を手に取った。
「昔、巫たちの間で流行った歌だよ。知らないか?
これを陰で口ずさんでいたらしい」
「…陰気なことだ」
当時の自分と同じ感想を漏らす弟を無視して、自分の左手の甲に刻まれた印を愛しげに撫でていると、
海皇がちらちらと視線をこちらに向けてくるのを感じたが、弟は何と切り出せばいいか迷っている様子だ。
こちらから教えてやらぬでもないが、というか大いに自慢したいところだが、すぐに教えてしまうのも面白くない。
「これが気になるか?」
挑発するように手の甲をひらひらと眼前で振りながら、我知らず、にまにまと笑っていたらしい。
言われた弟は困ったように眉を寄せ、酒盃をぐいと飲み干してから、ぎろりとその鋭い眼光で私を射抜いた。
「自らに、己の印を刻んで何とする?
なぁ、兄者。もとより兄者の酔狂は知ってはいたが、こたびのことは……姉者には言えぬ。
一生消えぬと知らぬものでもあるまいに…」
一息に告げた弟の、その目が心配だと語っていた。
心配には及ばぬというのに。
それどころか、私は幸せの階段の半ば過ぎまで登ったような心地だというのに。
私はするりと立ち上がり、左手の印を弟の眼前にびたりと寄せた。
弟からは、手の甲の向こうに不敵に微笑む私の顔が見えるだろう。
不安げに私の顔と手を、弟の眼球が行きつ戻りつを繰り返す。
それらを確かめ、弟からすっと離れると、卓の前の広い板敷に衣を持って佇んだ。
そうして芝居がかったように、朗々と語りながら踊り出す。
「たしかにこれは、己が印。
自らの印を己に刻むことの意味、知らぬ私であろうものか。
けれども、ようく見たれ、印の色をや、形をや。
その意味するところ、己にとって何ほどの価値があると思うてか。
たしかにこれは、己が印。
けれども、ようく見たれ、印の色をや、形をや。
紅に染まりたる己が印。
ほんに些少な違いなれど、形を変えたる己が印。
それを刻みし我の心を、いかにお前に伝えるらん。
我が心の高揚を、喜悦を、このあふるる感情にしたがい、踊り狂いたくなるほどの熱情を、いかにお前にあらわさん…」
ひとしきり、踊り終えて再び弟の傍へと座る。
掴んだ酒盃を渇きに任せて一気にあおる。
渇いた喉に、酒がしみるが、かまわない。
あっけにとられた顔で己を見つめている弟に、再び印を見せつける。
「これは、我が愛しのものに捧げた印よ。
この色は、我が心を捧げた色よ。
この印を持つものは、私と愛しのもののみ。
この世に唯一、一対の、我らだけの証。
我らの婚姻を表すものだ」
言い切ったところで、私ははぁ、と満足げに息をついた。
「婚姻の証だと?まさか、見つけたとでも言うのか!?」
婚姻、との言葉に弟は慌てて私の手を掴んで改めて凝視する。
そしてまるで消えてしまえとでもいうように、強く印を擦るので今度はこちらが慌てて自分の手をとり返す羽目になった。
「あぁ、痛い、痛い。お前の馬鹿力では私の皮がめくれるではないか」
手をさすりつつ、文句を言えば、
「本物かどうか確かめたまでよ。それより、答えよ、兄者」
悪びれることなく弟は質問を続ける。