新月の夜、巨石の上で(月神視点)
お待たせしました!!
かつて、人間の国である、中間国と、天上神の国である、天橋国とを繋ぐ橋があった。
今はもうない。
天橋国の神々が、人の国の統治を放棄し、人による統治を与えたとき、それは失われた。
同時に、天の神々は人の国に降りることはできなくなった。
もっとも、多くの神々は人の国になど行こうともしなかったが。
ともあれ、天翔大橋と呼ばれたその橋は失われたが、その名残が、この平原の真中に残っていた。
2つの大石が1つの巨石を支えるように積み上げられた岩。
トトラが降った時に最初に触れたであろう岩だ。
ここはトトラの気が、一番感じられる場所だった。
もう数えることなぞ出来ないほど、ここへと降り立っては、トトラの気配を追って中間国中を探しまわり、結局最後はここへとたどり着いてしまう。
ここ以上に、トトラの気が感じられるところはないのだった。
探せば探すほど、ここにトトラがいるとしか思えなかった。
そして今日もまた、この岩へと降り立ったのだが、珍しく先客がいた。
それを目にした途端、それしか見えなくなった。
白く、丸い。
そして、小さな姿。
一つも、以前と共通する容姿を留めていなかった。
けれど、けれど。
形は違えど、それは間違いなくトトラだと確信した。
(見つけた――――!!!)
一匹の白い兎が、こちらに背を向け、空を見上げていた。
間違いない、間違いない。
己のトトラだ。
この衝撃を何と言えばいいのやら。
一言でいえば、めっちゃ可愛い……!!
どんな姿になっても、己のトトラはどんなに可愛いんだろう。
丸い体の後ろ姿に、ちょろんと生えた耳と尻尾がピコピコと動いている。
あぁ、触って撫でて、こねくり回してしまいたい!!!
己の欲望にうずうずし、わなわなっと震える手を思わず伸ばした時、ククっと目の前の白い毛玉が笑った。
その嫌な笑いに手が止まる。
続く言葉は―――――己を憐れとのたまった。
己がしでかした罪に与えられた罰――己としてはちっとも困っていないのだが――を受けた己を、憐れだと。
全身が震え、ちょっと泣きそうだ。
……嬉しい。
トトラが心配してくれることが嬉しくてたまらない。
このような姿になってもなお、己を心配してくれているとは!!!
トトラの、その優しい心根は変わっていない。
「どうりで、コロコロと姿を変えるようになったと思うたわ。
そのような身では、夜を支配するのにも苦労しておろうな。
やはりいささか、憐れよ」
あぁ、夜の支配に苦労しているだろうなど、心配しなくてもよい。
「そうでもない」
トトラを安心させたくて、その小さな後ろ姿に声をかける。
振り向いたトトラがふるりと身を震わせた。
わかっているよ、わかっている。
お前も私に会えて身を震わすほどに嬉しいのだろう?
「お懐かしや、夜の支配者様。
まさか、地上へ降りてこられるとは。
父上の許しでも得られたのか」
「父の許しなぞ、あっても降りてこられぬよ。
父が母の領域に干渉なぞ出来ぬ。その逆も然り、ではあるがな」
トトラの言葉に、思わず肩をすくめて笑ってしまった。
相も変わらず、面白いことを言う。
己が生まれる前に、父と母が交わした約束はこの世の理そのもの。
父や母さえそれを違えることは出来ぬということを知っているであろうに。
ただ、あの子を除いて。
「ならば、なぜ」
表情の読めぬ動物となったトトラの顔から何を思っているかはわからなかったが、その声に好奇心が混じっていることは察せられた。
ならばと、簡単に説明する。
その説明が十分とはいえぬことは承知していたが、己にも自身に起きたことを十分把握しておらぬのだから、仕方がない。
けれどそのおかげで、こうしてトトラを探すことができるようになったことが、己には喜ばしくて、自然と笑みが浮かぶ。
「兄様たちにしでかしたことによる影響か?」
いきなりぶっきらぼうな口調になったトトラに、永い時の隔たりを自覚する。
以前のトトラは、己にそのような物言いを決してしなかった。
その変化は、幾分の寂しさはあったものの、どちらかといえば、好ましく感じられた。
「おそらく。お前の兄たちには感謝せねばな」
「それに関しては、こちらも礼をせねばなるまいな。
兄様たちを救うてくれて、それだけは、感謝しているよ。
だが、私からの感謝の言葉を聞きたくてここへ来たのか?」
……いやいやいやいや。
何を言うのか、このウサギめ。
そんなことを聞くためだけに地上へ降りるなど、そんな暇神ではないのだが。
これはじっくりと己の思いを述べてやらねばなるまいな。
トトラの傍に座って、語ってやることにした。
「新月の度、ここを訪ねていたのだがな、お主はつれない。
新月の日にしか、地上に降りられぬが、幾千、幾万ともつかぬ新月を迎えてここを訪ねても、一度も会えないとは!
だが、今日、やっと会えた。
元気な姿が見れて嬉しく思う」
言いながら、我慢できずにトトラに触れていた。
思った通り、以前のトトラの髪とは異なり、柔らかくふわふわとした感触の毛だったことが少し残念だ。
己を見上げるトトラの、己が一番愛してやまぬ、金の瞳が少しだけ大きく開かれた。
姿形は変わったが、その瞳は変わっていない。
「それは私の質問の答えではないな。何用だと聞いたつもりだったんだが」
「ただ、お主に会いたかった。お主と話がしたかった」
正直な気持ちを告げると、少し間をおいてトトラが頷いたので、ほっとしたのも束の間、
「夜の支配者様と私が話すことなぞ、一つしかないではないか。
あの方の話をいくらしたところで、傷を舐め合うようなもの。
そのようなことをしても、あの方の傍へなぞ行けぬよ」
…まったくと言っていいほど理解していなかった。
今の己こそ、憐れと言われてしかるべきだと苦笑いを浮かべる。
そして、トトラが己の元からいなくなったのは、やはりあの子が関わっているのだと合点がいった。
これは早急に誤解を解かねばな。
その小さな体を潰してしまわぬよう、慎重に抱きあげ、その金の瞳を見つめる。
「お主は考えすぎだ。あの子の話でなくともよい。
ただただ、お主と他愛のない話がしたいのだ。
なぜ私の名前を呼んでくれぬ。
以前のように、呼んでおくれ。
なぁ、私は今でも、お主は私のだと思っているよ。
本当に、会いたかった。
昔も今も、この先も、私はお主を変わらず愛しているよ、トトラ」
一つ一つの言葉を、ゆっくりと言い聞かせながら、わずかにその身の内に残っている力をその小さな体に注いだ。
見た瞬間に気づいていた。
トトラが土地神となっていることに。
土地神は、与えられた土地に縛られ、天空神の天橋国にも、地下神の地道国にも属すことのできぬ神だ。
それは人に祭り上げられることによってのみ存在でき、それゆえに人に忘れられれば、どちらにも属せぬ土地神は霞となって消えてしまう運命にある。
どちらかの国に属す神ならば、そのようなことはない。
幸い、トトラは土地神として日が浅く――それでも人にとっては永い時ではあるが――、土地への束縛がまだ弱い。
なんとか、また天橋国に連れてゆく事が出来るかもしれないと思った。
人ごときの都合で、己のトトラを失ってたまるものか。
力を注がれたトトラの全身の毛が、沸き立ち、体が膨らむ。
その反応に満足した。
新月という悪条件にもかかわらず、己の眷属とすることができた。
やはり、まだ手遅れではないらしい。
トトラがか細い声で何か言ったようだったが、己のものに戻すことのできた満足感に夢中で聞き取れなかった。
喜びの言葉を告げ、かつてそうしていたように、トトラの頬に己の唇を寄せた。
月神様は、トトラに対して盲目かつ傲慢な愛情を持っています;