新月の夜、巨石の上で(ウサギ視点)
R15は一応の保険です。
なるべくそういう描写がないように書いていくつもりです。
夜。
雲一つなく、星が煌めいているが、何かが足りない夜。
何が足らぬのか。
月だ。
月がない。
それもそのはず、今宵は、新月。
ククっとほくそ笑むのは、一匹のウサギ。
この世でただ一匹、金の瞳のウサギ。
この世の兎の眼は、茶か黒。
この世で金の瞳をもつ兎は、このウサギのみだ。
この世で唯一のウサギは、はるか昔、この地に降り立ったときに与えられた巨石の上に座っていた。
月の見えぬ日は、人が建ててくれたウサギの為の社で眠るのが日課だったが、今日は珍しく気が向いてここへきていた。
「いささか、憐れと思わぬでもないな。力が万全となる日は1日だけとは。
今宵など、何もできずにさぞ、歯痒いことだろうよ」
空を見上げたウサギはつぶやく。
今日、出会ったヘビが、教えてくれた話。
ウサギがこの地に降り立った日、月は禁忌を犯したらしい。
そんな話が、ここへと足を向けることになった。
そして今、煌めく星々から漏れ聞こえた話。
禁忌のせいで、元来丸い姿―今は満月と呼ばれる―しか見せなかった月が、1日1日と、姿を変えねばならなくなったらしい。
そして月は満ちるたび、元来の力を少しずつ取り戻すが、欠けるたびに少しずつ元来の力を失い、今宵のように完全に空から姿を消した日は、完全に力を失うらしい。
月の支配がないせいか、今日の星々はおしゃべりだ。
「どうりで、コロコロと姿を変えるようになったと思うたわ。
そのような身では、夜を支配するのにも苦労しておろうな。
やはりいささか、憐れよ」
憐れとつぶやく割に、ウサギの顔に浮かぶのは笑みだ。
「そうでもない」
応えなぞ望んでいないつぶやきにおや、とウサギは声の主へ振り向いた。
声の主が誰であるのかに気付き、体が一瞬震える。
「お懐かしや、夜の支配者様。
まさか、地上へ降りてこられるとは。
お父上の許しでも得られたのか」
ウサギが座するのはウサギに与えられた巨石。
ウサギの許しがない限り、他の者なぞ上がれぬはずのその場に、いつのまにやらもう一人、男が佇んでいた。
「父の許しなぞ、あっても降りてこられぬよ。
父が母の領域に干渉なぞ出来ぬ。その逆も然り、ではあるがな」
肩をすくめてほほ笑む男は、美しかった。
この世のどんな美女でも、この男には敵うまい。
この男こそ、月だった。
月が象徴するのは美。
この世のあらゆる美しさを具現化した存在が、今、ウサギの傍に佇む男だった。
「ならば、なぜ」
望まぬ訪問者を咎める気はないが、ウサギからは歓迎の様子も浮かばなかった。
男は唯人なら、見惚れ、呆けることしかできなくなる存在だが、ウサギにそれは通じない。
「どうやらな。天上での力を失う分、こちらへ干渉できる能を得たようでな。
新月になれば、こうやって地上にもこの身を下すことができる」
嬉しそうに笑う月。
「兄様たちにしでかしたことによる影響か?」
「おそらく。お前の兄たちには感謝せねばな」
「それに関しては、こちらも礼をせねばなるまいな。
兄様たちを救うてくれて、それだけは、感謝しているよ。
だが、私からの感謝の言葉を聞きたくてここへ来たのか?」
月はウサギの許しは得ず、ウサギの傍に座る。
「新月の度、ここを訪ねていたのだがな、お主はつれない。
新月の日にしか、地上に降りられぬが、幾千、幾万ともつかぬ新月を迎えてここを訪ねても、一度も会えないとは!
だが、今日、やっと会えた。
元気な姿が見れて嬉しく思う」
月は言いながら、ウサギの頭を撫でた。
月のその言葉に、行動に、わずかに瞠目したウサギだったが、それ以上は何の変化も見せなかった。
「それは私の質問の答えではないな。何用だと聞いたつもりだったんだが」
「ただ、お主に会いたかった。お主と話がしたかった」
ウサギに眉があったなら、片眉をあげただろう。
けれど、残念なことにウサギに眉はない。
しばし月の意図を測りかねたが、やがて合点がいったように頷くと、嘆息した。
「夜の支配者様と私が話すことなぞ、一つしかないではないか。
あの方の話をいくらしたところで、傷を舐め合うようなもの。
そのようなことをしても、あの方の傍へなぞ行けぬよ」
ウサギの言葉に月は苦笑いを浮かべた。
そして、おもむろにウサギを抱き上げ、その視線を合わせる。
「お主は考えすぎだ。あの子の話でなくともよい。
ただただ、お主と他愛のない話がしたいのだ。
なぜ私の名前を呼んでくれぬ。
以前のように、呼んでおくれ。
なぁ、私は今でも、お主は私のだと思っているよ。
本当に、会いたかった。
昔も今も、この先も、私はお主を変わらず愛しているよ、トトラ」
熱い瞳で語りかける男は、ウサギを真名で呼んだ。
ウサギの全身の毛が、沸き立ち、体が膨らむ。
それは歓喜でもあり、恐怖でもあった。
今日、巨石になぞおらねばよかったと後悔したが、遅かった。
この忘れもしない感覚は、月がウサギをおのれの眷属にした証だった。
震えながら、左の手の甲を見る。
真っ白な毛に覆われていたそこには、くっきりと月の印が赤い毛となって浮かんでいた。
まさか、男が地上へ来れるとは思っていなかったのだ。
まさか、いまだにこの男が己を支配下におくことができるとは思ってもみなかったのだ。
「未だに天上の者は悪趣味か」
罵る言葉はか細い。
「やっとお主と会えたのだ。
二度とお主を失いたくないのだよ」
男の唇が、ウサギの頬に触れる。
(愛しているのは、失いたくないのは、私ではなく、あの方なのだろう?夜皇様)
男の触れる感触が、とても心地よい半面、空しくもあった。