第二回
この小説は私がよく遊びに行かせていただいていた新世界の街、そして、通天小町を主な舞台としたサスペンス小説です。
どうぞご覧ください。
凶報、浪速署の朝
2026年1月6日、午前9時過ぎ。
浪速署刑事課の静寂は、一本の電話によって破られた。受話器を置いた当番刑事が、鋭い声で工藤を呼ぶ。
「工藤さん、新世界の『通天小町』で遺体発見です。従業員からの通報です」
工藤は、飲みかけの茶を置くと同時に立ち上がった。昨日、パトロールの最後に眺めたあの桃色の要塞。その閉ざされた扉の奥で、何かが起きていたのだ。
「立花、出るぞ」
「了解です!」
二人は足早に署を飛び出し、寒風の中を通天閣の麓へと向かった。
路地裏に佇む通天小町の前には、すでに警察車両が数台停まり、黄色い規制線が張り巡らされている。周囲には野次馬が立ち止まっていたが、建物の入口に立つと、外側の喧騒が嘘のように吸い込まれていった。
自動ドアを抜けた瞬間に感じる、独特の静謐さ。
受付には、昨日見かけたのとは別の男性従業員が、感情の消えた顔で座っていた。警察官が慌ただしく出入りしているというのに、彼の瞳には一切の動揺がない。まるで、この建物の中で起きることはすべて日常の範囲内だと言わんばかりの冷淡さだった。
「刑事さん、3階の302号室です。エレベーターでVIPエリアへ上がってください」
工藤と立花は、厚い絨毯に足音を殺しながら、目的の部屋へと向かった。
302号室の扉が開け放たれている。そこには、鑑識官たちのフラッシュの光と、濃密な死の気配が充満していた。
工藤が部屋に一歩足を踏み入れる。そこは、外の世界から完全に隔絶された、豪華だが見せ掛けだけの無機質な空間だった。
ベッドの脇、深い色の絨毯の上に、一人の男が俯せに倒れている。
昨日、新世界の街並みから浮き上がるように歩いていた、あの「新参者」の竹内だった。
「……間違いない。昨日見かけた男や」
工藤の低い声が、防音壁に跳ね返ることなく吸い込まれていった。
外では新世界の活気がいつものように動き出している。しかし、この302号室だけは、昨夜のまま時が止まったような、重苦しい沈黙が支配していた。
完全防音の沈黙
特別室と言われる302号室の内部は、外観の桃色からは想像もつかないほど、重厚で落ち着いた色調で統一されていた。広いリビングスペースには革張りのソファーが置かれ、その奥には浴室と大きな化粧台がある。
工藤は、遺体の傍らに膝をついた。
被害者・竹内の後頭部には、鈍い衝撃を受けたような痕跡がある。倒れ込んだ際に、ちょうどサイドテーブルの角に打ち付けたようにも見えた。
「争った形跡はありますが、派手な荒らされ方はしていませんね」
立花が周囲を慎重に見回しながら言った。
「ああ。だが、この部屋の壁を見てみろ。普通のホテルの比やない」
工藤が指差した壁は、特殊な吸音材を含んだ厚い構造になっていた。試しに、隣の部屋で鑑識官が機材を置く音に耳を澄ませてみるが、一切の振動すら伝わってこない。
ここは、叫び声を上げようが、物が壊れる音が響こうが、扉を閉めてしまえば「無」になる空間なのだ。
「被害者の竹内……昨日見た時は、誰かを探しているようなギラついた目をしていましたが、今はただの物言わぬ塊です」
立花は、昨日感じたあの刺々しい空気の正体を探るように、竹内の遺品に目を向けた。
テーブルの上には、コンビニで買ったであろう酒の空き缶と、そして何よりも不自然なものが置かれていた。
それは、使い古された小さなメモの断片だった。そこには、殴り書きのような筆跡で、ある住所の一部らしき文字が記されている。
「……有松?」
工藤がその文字を読み上げる。
大阪から遠く離れた、名古屋の地名だ。なぜ新参者の竹内が、新世界の密室で名古屋の地名を記したメモを広げていたのか。
「刑事さん、ちょっといいですか」
部屋の外で、聞き込みを終えた別の刑事が手招きをした。
「従業員の話じゃ、昨夜、この男と一緒に部屋に入った連れがいたそうですわ。……それが、相当な美人やったらしい」
工藤の脳裏に、昨日の午後、増田理容店の鏡越しに見た「あの影」が鮮明に蘇った。
あの時、怯えたように背後を気にしながら通天小町へと消えていった、美しい女装子の姿が。
「その『連れ』は、今どこにいる」
「それが……。今日の早朝、フロントの前を平然と1人で通り過ぎて、そのまま街に消えたそうです。従業員は『客のプライバシーに関わるから』と、呼び止めもしなかったと」
工藤は拳を握りしめた。
新世界の「無関心」という掟が、犯人の逃走をこれ以上ないほど鮮やかに手助けしていた。
徹底された無関心
302号室から一階のフロントへ戻った工藤は、改めて従業員たちの前に立った。
受付のカウンターは磨き上げられ、数時間前に死体が運び出された場所とは思えないほど、平穏な静寂が保たれている。
「改めて訊く。昨夜、竹内と一緒にいた連れの女についてだ。どんな格好で、どんな様子だった?」
工藤の問いに、中年の男性従業員は視線を合わせぬまま、淡々と答えた。
「……背の高い、綺麗な方でしたよ。それ以上のことは分かりません。うちは名前を訊くような野暮な真似はしませんので」
「野暮、か。人が一人死んどるんやぞ」
工藤の語気が自然と強まる。だが、従業員は眉ひとつ動かさない。
「刑事さん。ここはそういう場所なんですわ。外でどんな名前で呼ばれてようが、どんな仕事をしていようが、ここへ来ればただの『客』。詮索しないのが、ここの優しさなんです。……だからこそ、あの方も平然と帰っていかれた。我々に止める理由なんて、どこにもありません」
その言葉には、警察への協力拒否というよりも、もっと根深い「哲学」のようなものが感じられた。新世界の路地裏で、自分たちの聖域を守り続けてきた者たちの、揺るぎない拒絶だ。
工藤は、昨日のパトロールで感じた街の温かみが、一瞬にして冷徹な壁へと反転したことを悟った。ラジウム温泉で冗談を言い合った住人たちも、一度この「通天小町」の件となれば、同じように口を閉ざすだろう。
「工藤さん、防犯カメラを確認しましたが……」
戻ってきた立花の顔は暗かった。
「肝心なところは、画質が粗くて判別できません。それに、入り口付近を映すカメラは、ちょうど誰かが立ち去る時間帯にメンテナンスが入っていたようで」
「メンテナンスやと? 出来すぎとるな」
工藤は鼻を鳴らした。偶然ではない。この建物そのものが、まるで犯人を逃がすために協力しているかのようだった。
「竹内という男は、この街にとっては『よそ者』やった。だが、一緒にいた連れの女は、この街のルールを熟知していた……。だからこそ、堂々と正面から消えることができたんや」
工藤はフロントに置かれた、通天小町の目新しいパンフレットを手に取った。
そこには三層構造の迷路のような間取りが描かれている。この桃色の要塞は、一度逃げ込んだ者を完全に隠し、そして静かに解き放つ機能を持っていた。
「……立花、普通の聞き込みじゃ拉致があかんわ。看板を隠して、懐に飛び込むしか道はないかもしれん」
工藤の視線の先では、新世界の住人たちが、何事もなかったかのように路地を通り過ぎていた。
浮いていた男・竹内
浪速署の取調室。工藤は、鑑識から上がってきた竹内の身元資料を睨みつけていた。
竹内、42歳。住所は名古屋市。
職業は自称・コンサルタントだが、その実態は「情報」を売り買いするグレーな商売人だった。特定の組織には属さず、他人の消したい過去を掘り起こしては、それを盾に強請りをかける。この界隈では、最も忌み嫌われる類の男だ。
「工藤さん、竹内の携帯の発信履歴が出ました」
立花が資料を差し出す。
「事件の数日前から、新世界周辺の特定の番号に何度もかけています。相手は――通天小町の常連客として登録されている、ある『女性』の偽名でした」
「レイナ、か」
工藤は呟いた。
竹内は、新世界を愛してここへ来たのではない。獲物を追い詰め、その生き血を啜るために、わざわざ名古屋からこの街へ乗り込んできたのだ。
新世界の住人たちが竹内に感じた「不快な空気」の正体は、それだった。彼は、この街が守り続けてきた「過去を問わない」という優しさを、最も卑劣な形で利用しようとしていた。
「竹内の所持品にあったあの『有松』のメモ。あそこには、レイナ――本名、覚という人物が、どうしても隠し通したかった『致命的な弱み』が記されていたようです」
立花の報告を聞きながら、工藤は深く椅子に背を預けた。
竹内は、レイナを「性の奴隷」にしようと強要していた。通天小町の302号室は、その契約を完結させるための場所だったのだろう。だが、追いつめられた獲物が、土壇場で牙を剥いた。
「……竹内は、新世界のルールを舐めていたんやな。ここは誰もが自分を偽って生きられる場所や。だが、その偽りを剥がそうとする奴には、街全体が牙を剥く」
工藤は、現場から見つかった竹内の手帳の端に、小さな走り書きを見つけた。
『次は、難波の小悪魔か。逃げ場はない』
「小悪魔……難波にある女装ルームの名前やな。立花、竹内はレイナの足取りを完全に把握しとったんや。名古屋から大阪へ、そしてここからさらに先へ……。レイナが逃げようとした形跡が、点となって繋がり始めとる」
だが、現在レイナの行方は、新世界の雑踏に消えたきり途絶えている。
警察のデータベースにも載らない、偽名と仮面で生きる彼女たちのネットワーク。刑事の足では、その入り口にすら辿り着けない。
「工藤さん、捜査一課はすでに『指名手配』の手続きに入っています。でも、このままじゃ……」
「ああ。街が彼女を隠してしまう。刑事の看板を出している限り、俺たちは一生『外側』の人間や」
工藤の視線は、机の上に置かれた、かつて自分がパトロールで歩いた新世界の地図に注がれていた。
消えた連れ込み客
事件発生から丸一日が経過した。新世界の空は、何事もなかったかのように暮れなずみ、通天閣のネオンが冷ややかに街を照らし始めている。
工藤と立花は、再び「通天小町」の前に立っていた。規制線は外され、入り口付近には昨日のような物々しさはない。だが、一度事件の色が染み付いた建物は、工藤の目には毒々しいほどの沈黙を保っているように見えた。
「工藤さん、周辺のカメラをさらに広げて追いましたが……。やはり駄目です」
立花が力なく首を振る。
「新世界の雑踏へ出た後、彼女はまるで霧のように消えました。服装を変えたのか、あるいは協力者がいたのか……」
逃げたレイナは、この街の「闇」の深さを味方につけていた。
この界隈には、戸籍も本名も持たないまま、夜の帷に紛れて生きる者たちが大勢いる。彼らにとって警察は「秩序を運ぶ者」ではなく、「平穏を乱す土足の侵入者」でしかない。
「あいつの正体は、名古屋の強請り屋やった。だが、新世界の奴らにとってみれば、殺された竹内も、逃げたレイナも、等しく『通天小町の客』でしかないんやな」
工藤は、ポケットの中のレシートを無造作に丸めた。
「従業員も、近所の奴らも、本当は何かを知っとるはずや。だが、俺たちの前では絶対に口を割らん」
立花が、ストレスで荒れた口元をそっと指で押さえた。
「刑事としてここで聞き込みを続けるのは、砂漠に水を撒くようなものかもしれませんね」
「……ああ。看板を捨てなあかん」
工藤の言葉に、立花がハッとして隣を見た。
「立花、お前はハードルの時、目の前の障害物をどうやって超えてきた?」
「……ただひたすら、真っ直ぐに。恐怖を忘れて、その先へ飛ぶことだけを考えていました」
「そうか。俺も400mのラスト100メートルは、景色が白くなって何も見えんかった。今はその時や。真っ当な道が塞がっとるなら、別の跳び方を探すしかない」
工藤は通天小町の桃色の壁を、射抜くような目で見据えた。
竹内が握りしめていた名古屋・有松の因縁。そして、死の淵から逃亡したレイナの孤独。それらを追うためには、自分たちもこの「聖域」の住人として、境界線を越えなければならない。
工藤の脳裏に、一つの異形な作戦が浮かび始めていた。
武骨で汚らしい女装姿。街の誰もが目を背け、それでいて誰もが「そういう奴もいる」と流してしまう、異物としての姿。
「行くぞ、立花。次は聞き込みやない。……『仕込み』や」
二人は、新世界の喧騒の中へと背を向けた。
※この物語はフィクションです。
※95%AIで書かれています。
施設の描写など現実とはだいぶかけ離れた部分がありますが、気になった方は実際に観光して見比べて楽しんで頂けたら嬉しいです。




