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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『スワンの翼』

作者: カトラス

本作は、作者が過去に執筆した短編連作『人間万華鏡』シリーズの一編を原案として改稿した作品です。

 僕は、アンデルセンの童話『醜いアヒルの子』が好きだった。


 理由は単純だ。今は見すぼらしくても、いつかは白鳥になれる――その一文が、ずっと胸の奥に巣を作って離れなかったからだ。胸の中に沈めたその願いは、水面の底でじっと光を待つ魚のように揺れていた。


 生まれつき小柄で、顔立ちは整っていなかった。鏡の中の自分を直視することが、子どもの頃から苦手だった。


 だからなのか、物心がつく前から学校では疎まれ、やがて露骨な形のいじめに晒されるようになった。


 今も放課後の校舎裏、湿った土と埃の匂いがする体育館の壁際で、彼らに囲まれている。風が抜けると、遠くで部活動の掛け声が、川のせせらぎのように遠ざかっていく。


 彼らの声は笑いとも嘲りともつかない響きで耳を刺す。僕の肌の色や匂いについて、無造作に言葉を重ねる。今日に限っては、輪の中に女子の笑い声も混ざっていた。羞恥が骨の内側まで沁み、冷水のように心臓を締めつける。


 背の高い男が、からかうように僕の服へ手を伸ばす。拒めば、鋭い痛みが腹を打つ。息が詰まり、視界が一瞬暗くなる。膝が折れた瞬間、別の衝撃が頭に落ちてきた。


 言葉より先に、体が反応してしまう。肩が竦み、呼吸が浅くなる。


 何かが剥がされ、冷たい空気が脚を撫でる。その感覚は川辺で不意に水面を切る風のように鋭い。輪の中の笑いが高まり、視線が一点に集中する。笑い声は乾いた拍手のように空気を震わせた。


 屈辱に火がつくより早く、体の奥が勝手に反応してしまった。温かい液体が流れ落ち、その色が青いことを誰かが叫んだ。まるで深海から湧き上がる未知の泉のように。


 その声は驚きというより、獲物を見つけた捕食者の声に似ていた。


 ――その瞬間だった。


 眩光が落ちてきた。目蓋を貫くほどの白が、頭の奥にまで染み渡る。全員が同じ方向を見上げ、空中に浮かぶ異形の物体を目にした。輪郭は揺らぎ、色彩は水面に映る月明かりのように不確かだった。


 気がつけば、僕たちは何もない空間に横たわっていた。床とも壁ともつかぬ平面は、ただの“無”の色をしていた。それは底知れぬ湖の底に漂うようでもあった。


 そこに、音もなく扉が現れる。開いた口から現れたものは、人ではなかった。緑の肌、背には闇色の大きな翼。


 不思議と、僕は恐怖を覚えなかった。むしろ、遠い記憶の底にある懐かしさが呼び起こされるようだった。それは、長い旅を終えて水辺に戻った渡り鳥の安堵にも似ていた。


 声が響く。耳ではなく、骨に直接触れるような言葉。


 断片だけが意味を結ぶ――「我は神」「創造主」「返さない」「研究」。


 白鳥は、いま、湖面の向こうから僕を呼んでいる気がした。


 いじめた奴らの耳には断片しか届かない異国の響きが、なぜか僕には澄んだ水のように意味を結んで流れ込んでくるのが分かった。 それはこうだ――我はシュメールの神、お前たちの創造主。研究のためにここへ連れてきた。帰すことはない。


 その存在は、怯えた顔をした男のひとりに近づくと、長くしなやかな爪をそっと服に置き、布を裂いた。 船内に響く短い悲鳴は、金属壁を伝って波紋のように広がる。 紅が滲み、やがて深い色へと変わっていくのを、僕はどこか遠くから眺めているようだった。


 だが、創造主が掌を翳すと、血は水が引くように消え、残されたのは静かな切り口だけだった。 傍らにはいつの間にか透明な器が置かれ、その中に淡い光を帯びた何かが沈んでいく。 それは見覚えのある映像――瓶詰の標本。けれど現実は、映画の画面よりずっと静かで、冷たく、美しかった。


 気づけば男は、外殻だけを残し、中身はすべて失われていた。 その有様を前にしても、恐怖は奇妙に形を変え、胸の奥で硬く澄んだ氷のようなものに変わっていた。


 創造主は僕の前に立ち、手を差し伸べる。「さあ、仲間よ」 その声は波のように背骨を這い上がり、脳の奥で響いた。


 仲間――。意味を測りかねていると、背中に水泡が膨らむような違和感が走った。 いじめた奴らの短い叫び声が耳に届く。 振り向けば、肩甲骨の下が裂け、そこから黒い翼がゆっくりと開いていく。 羽根は闇を湛え、湖面の夜を切り裂くような光沢を帯びていた。


 白鳥にはなれなかった。だが、この黒い翼は、悪魔のように凛々しく、そして何より、美しかった。 僕はその瞬間、醜い人間から、美しい神へと変わったのだと知った。


 仲間は同じ姿の僕を見つめ、いじめた奴らを指さす。「……実験」 その一語が、冷たい水滴のように胸に落ちる。


 僕は想像する。あいつらの頭蓋の中、その脳はどんな色をしているのか。どれほどの重みと温度を持つのか。 長く変わった爪が、額にそっと触れる。 水底に沈めた小石が、静かに波紋を広げるように――僕は、人間の領域を超えた。



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