第6話「静かなる掃除」
宿の古びた木戸を、音を立てずに開けて外に出る。
ひやりとした夜気が、ローブの隙間から肌を撫でた。
エリーナを部屋に残し、俺はリグランの夜の闇へと再び身を投じていた。
表通りの魔力灯が届かない裏路地は、まるで墨を流したように黒く、濃い。
常人であれば、一寸先も見えないだろう。
『ティア、視界確保』
俺が脳内で短く命じると、即座に返答があった。
《了解。ナイトビジョンモードに移行します》
次の瞬間、俺の視界を覆っていた闇が、淡い緑色の光景へと切り替わる。
全ての障害物、全ての地形が、まるで真昼のようにクリアに見えていた。
(ここが異世界でなければ、最高の潜入日和だな)
そんなことを考えながら、俺は壁を伝い、屋根を越え、目的地である第3倉庫へと向かう。
常人なら見失うような複雑な路地も、ティアが示す最適ルートの前では、ただの通路に過ぎない。
『ティア、ターゲットまでの距離は?』
《南地区、第3倉庫まで、現在地より850メートル。
高所を移動した場合の予想到達時間は3分15秒です》
『警備状況を更新しろ』
《了解。偵察ドローンからのリアルタイム映像を統合します。
倉庫周辺の外部警備は4名。2名一組で、建物の周囲を時計回りに巡回中。
屋上に見張りはなし。侵入経路として、北側の屋根にある荷物搬入用の天窓が最もリスクが低いと判断します》
俺の視界の隅に、倉庫の立体図と、赤い点で示された警備兵の動きが表示される。
彼らの巡回ルート、視線の向き、次の行動予測まで、全てがデータとして俺に流れ込んでくる。
もはや、これは潜入ですらない。
答えのわかっているテストを解くようなものだ。
数分後、俺は音もなく第3倉庫の屋根に着地していた。
月明かりに照らされた、巨大で無骨な石造りの建物。
ここが、この街を蝕む巨大な蛇の、尻尾の先。
『ティア、内部の状況は?』
《赤外線スキャン及び、壁の振動を解析。
内部には、推定8名の生体反応。
1階に6名が分散して待機。2階の管理事務所と思われる区画に2名。
全員が武装している可能性が高いです》
『合計12名か。思ったより少ないな』
《はい。ですが油断は禁物です。
未知の魔道具や、警報装置が設置されている可能性を考慮してください》
『分かっている』
俺は天窓の縁に手をかけ、静かに持ち上げる。
幸い、鍵はかかっていなかった。この世界の連中は、まだ空からの侵入という概念が薄いらしい。
身を滑らせ、倉庫の内部へと侵入する。
中は、様々な木箱や樽が山と積まれ、迷路のようになっていた。
埃と、乾いた木の匂い。そして、微かに鼻を突く、これは……薬品の匂いか。
俺は倉庫の梁の上、闇に紛れて身を潜める。
眼下では、二人の警備兵が欠伸をしながら、つまらなそうに話していた。
「たく、なんで俺たちがこんな夜中まで見張りなんだよ」
「しょうがねぇだろ。最近、”商品”の出入りが激しいんだ。会頭もピリピリしてる」
「商品ねぇ……。どうせ、またどっかから攫ってきた奴隷だろ。気味の悪ぃ」
「おい、聞こえるぞ。お前、消されたいのか」
男たちの会話を聞きながら、俺は静かに銃を生成する。
『ティア、M9、サプレッサー付きだ』
《了解。構築を開始します》
ポーチの中で、M9が音もなく形を成す。
冷たい感触を確かめ、俺は梁の上からゆっくりと銃口を向けた。
『まず、あの二人からだ』
《了解。対象2名をロック。
左の対象の延髄、右の対象の心臓部をマーキングします》
俺の視界に、二つの赤いマーカーが灯る。
呼吸を止め、世界がスローモーションになるような集中状態に入る。
ティアの支援が、俺の身体能力を限界まで引き出していた。
プスッ。
闇に響いたのは、ほとんど吐息のような音だけ。
最初に狙った男が、首の後ろから血を噴き、声もなく前のめりに倒れる。
「……え? おい、どうし……」
相方の異変に気づいたもう一人の男が、言葉を終えることはなかった。
プスッ。
胸の中心を撃ち抜かれ、彼は自分の身に何が起きたのか理解できないまま、崩れ落ちた。
《残敵、内部に10名》
ティアの冷静な報告を聞きながら、俺は梁から静かに飛び降りる。
猫のように着地し、死体には一瞥もくれず、倉庫の奥へと進んでいく。
ここからは、掃除の時間だ。
木箱の影から、次の警備兵が姿を現す。
俺は壁に張り付き、奴が通り過ぎるのを待つ。
ティアのレーダーには、奴の心臓の鼓動まで表示されていた。
奴が俺の真横を通り過ぎた瞬間、俺は背後から口を塞ぎ、首筋にコンバットナイフを突き立てた。
ごぼり、と肉が裂ける感触。
男はわずかに痙攣し、すぐに動かなくなった。
銃声すら立てる必要がない相手だ。
死体を物陰に引きずり、さらに奥へ。
ティアが示すマーカーを頼りに、俺は倉庫内を徘徊する亡霊のように、一人、また一人と警備兵を”処理”していく。
ある者は、巡回ルートの死角から。
ある者は、物音でおびき寄せたところを。
またある者は、仲間と談笑しているところを、二人まとめて。
抵抗らしい抵抗は、一切なかった。
彼らは、自分たちを狩る存在に気づくことすらできずに、命を落としていく。
彼らにとって、俺は不可視の災害のようなものだっただろう。
《1階の生体反応、全て消失。
残りは2階事務所の2名です》
『了解した』
俺は倉庫の隅にある、粗末な木製の階段を、軋ませないように慎重に上っていく。
2階の事務所からは、明かりが漏れていた。
中からは、男たちの楽しげな声が聞こえてくる。
「おい、もう一杯どうだ?」
「へへ、いいんですかい、隊長。見張り中ですぜ」
「バカ野郎、こんな倉庫に誰が来るってんだ。どうせ、下の連中がなんとかするさ」
(……その下の連中は、もう誰一人として喋らんがな)
俺は心の中で毒づきながら、ドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。どこまでも脇が甘い。
ドアを静かに、数センチだけ開ける。
隙間から中を覗くと、机を挟んで二人の男が酒を飲んでいた。
一人は小太りの中年男。おそらく、ここの責任者だろう。
もう一人は、少しだけ上等な革鎧を着ている。警備の隊長格か。
『ティア、室内の構造と、価値のありそうな物をスキャンしろ』
《了解。スキャン中……完了。
部屋の奥、壁際に偽装された金庫を発見。
内部に高密度の金属反応と、紙と思われる有機物の反応多数。
帳簿が保管されている可能性、95%以上》
『そうか』
なら、用があるのは金庫だけだ。
この二人は、もはや不要な障害物でしかない。
俺はドアを蹴破り、室内に転がり込んだ。
「な、何者だ!?」
二人の男が、驚愕の表情でこちらを見る。
だが、彼らが椅子から立ち上がるよりも早く、俺のM9は火を噴いていた。
プスッ。プスッ。
二つの小さな音が、ほとんど同時に響く。
隊長格の男は眉間を、責任者の男は心臓を撃ち抜かれ、机に突っ伏して絶命した。
《室内、制圧完了》
俺は銃口から立ち上る硝煙を払い、ティアが示した金庫へと向かう。
分厚い鉄製の、ダイヤル式の金庫。
この世界の技術では、破壊するのは骨が折れるだろう。
『ティア、開けられるか?』
《ダイヤル錠の構造を解析。
内部のタンブラーの僅かな振動音を分析し、組み合わせを特定します。
ダイヤルを、指示通りに回してください》
俺の視界に、数字と回転方向を示す矢印が表示される。
俺はそれに従い、無心でダイヤルを回した。
右へ、15。
左へ、42。
右へ、28。
カチリ、と。
重厚な金属音が、静かな事務所に響いた。
《解錠、成功です》
俺は金庫の分厚い扉を開ける。
中には、金貨や宝石の詰まった袋がいくつか。
そして、数冊の分厚い革張りの帳簿。
『ティア、この帳簿をスキャンしろ。最優先だ』
《了解。データ化を開始します》
俺は帳簿のページを、素早くめくっていく。
ティアの視覚センサーが、その内容を瞬時にデジタルデータへと変換していく。
中には、おぞましい記述が並んでいた。
”商品番号A-32、エルフ族、女、15歳。バレリウス男爵邸へ納品済み”
”商品番号B-15、獣人族、男、20歳。鉱山労働用として売却”
”商品番号B-16、人間、男、35歳。反抗的だったため、”処理”済み”
……子爵の名は、まだ見当たらない。
だが、これがジューミ商会が奴隷売買に関わっている、動かぬ証拠だ。
《データ取得完了。奴隷売買に関する裏帳簿、完全にデジタルアーカイブ化しました》
『よし。撤収する』
俺は帳簿を金庫に戻すと、金貨の袋を一つだけ掴み、TACT-PACKに放り込んだ。
活動資金は、いくらあっても困らない。
俺は事務所を後にし、再び倉庫の闇へと戻る。
来た時と同じように、梁を伝い、天窓から外へ。
リグランの街は、何も変わらず静かな寝息を立てていた。
この倉庫の中で、十数人の命が消えたことなど、誰も知らない。
俺は屋根の上を走り、安宿への帰路についた。
これで、蛇の尻尾は切り落とした。
次に奴らがこちらの存在に気づくのは、明日の朝、この惨状を発見してからだ。
混乱し、恐怖するだろう。
そして、見えない敵の影に怯えることになる。
それでいい。
こちらの戦力を誤認させ、奴らが無駄な動きをすれば、そこをまた叩けばいい。
静かな掃除は、まだ始まったばかりだ。