最終話「そして、砂塵の先へ」
朝日が昇り、オルグの街に新しい一日が訪れた。
城壁の前に広がっていた悪夢のような光景は、街中の人々の懸命な作業によって、夜明けまでにはそのほとんどが片付けられていた。
たった一人の男が一夜にして作り上げた絶望の墓標は、今はもうない。
街は勝利の歓声と復旧作業の喧騒に包まれていた。
冒険者ギルドの酒場は朝から興奮した冒険者たちで溢れかえっている。誰もが昨夜のありえない光景を口々に語っていた。
「……見たかよ、あの黒い影……」
「ああ……。あれは人じゃねぇ……。まさに”災厄の化身”だ……」
「ゼノアから来た商人が言ってたぜ。……”幻影”だってよ……」
一つの伝説が生まれる瞬間。
だがその伝説の主役である俺は、そんな喧騒とは無縁の場所にいた。
街の裏路地にある古びた馬小屋。俺はそこでルナと共に静かに旅立ちの準備をしていた。
「……シン。街の人たち、あなたのこと探してた」
ルナが心配そうに俺の顔を見上げる。
「放っておけ。俺たちは英雄ごっこをしに来たわけじゃない」
俺はぶっきらぼうに答える。
ルナは何も言わず、こくりと頷いた。
『ティア。準備は完了したか』
《はい。水と食料は最低でも二週間分を確保しました。砂漠用の装備も問題ありません》
《いつでも出発できます》
俺が最後の荷物をまとめた、その時だった。
馬小屋の入り口に巨大な影が立った。
「クリムゾン・ホーク」の三人だった。
「……見送りに来たのか?」
「ば、馬鹿言え!たまたま偵察任務の報告が長引いただけだ!」
カイルが顔を赤らめながらそっぽを向く。
リアはそんな彼にくすくすと笑いながら、ルナの前へと歩み寄った。
「ルナちゃん。これ、お守り」
彼女がルナの小さな手に握らせたのは、聖印が刻まれた小さな銀のペンダントだった。
「あなたの旅が光に満ちていますように」
「……ありがとう」
ルナが小さな声で礼を言う。
最後にギデオンが一歩前に出た。
「……これを持って行け」
彼が差し出したのは一枚の古い羊皮紙だった。
そこには驚くほど詳細な砂漠の地図が描かれている。安全な水場の位置や危険な魔物の巣、そして地図にはない古代の遺跡への道筋までが記されていた。
「……なんだこれは」
「俺たちクリムゾン・ホークが何年もかけて作り上げた”宝”だ」
「……仲間を失い、もう俺たちだけじゃこの先へは進めねぇ。だからあんたに託す」
彼の真剣な目。
「俺はプロとしてあんたの腕を認めている。だからこれは施しじゃねぇ。プロからプロへの”投資”だ」
「いつかこの地図の先であんたが何かを見つけた時、その話を聞かせてくれりゃそれでいい」
俺は黙って地図を懐にしまった。
言葉は不要だった。
俺たちの間にはプロフェッショナルとしての確かな信頼が生まれていた。
「……一つ聞かせろ」
ギデオンが去り際に問いかけた。
「……あんた、一体何のために戦う?」
俺は一瞬答えに窮した。
そして俺の背後で俺の服の裾を固く握りしめている、ルナの小さな存在に気づく。
「……さあな。ただ守りたいものができた。それだけだ」
俺の答えにギデオンは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに満足そうに笑った。
「……そうか。なら十分だ」
「……達者でな、”幻影”さんよ」
彼らはそれだけを残し朝日の中へと消えていった。
俺はルナの手を引いた。
『俺たちは俺たちの道を行くだけだ』
俺たちは街の南門から、どこまでも続く広大な砂漠へと第一歩を踏み出した。
◇
――それから半年が過ぎた。
俺とルナは世界の果てと呼ばれる極北の地にいた。
ギデオンから受け取った地図が示した最後の場所。
そこにあったのは天を突くような巨大な水晶の塔だった。
俺たちはいくつもの遺跡を巡り、いくつもの戦いを乗り越えてきた。
ティアは失われたモジュールを取り込み、その記憶を少しずつ取り戻していた。
ルナもまた自分の持つ力を、少しずつコントロールできるようになっていた。
そして全てがこの場所に繋がっていた。
塔の内部は静寂に包まれていた。
最上階。
そこに一つの装置があった。
そして最後のログデータが。
《……我々は失敗した》
記録されていたのは疲れ果てた男の声だった。
それは俺が元いた世界の言語で語られていた。
《次元転移実験は失敗。世界管理AI”マザー”は暴走し、そのコアは無数の”断片”となってこの世界に飛散した》
《我々はその断片を回収してマザーを再構築しようとした。だがもう時間がない》
《この装置は一人だけを元の世界へ送り返すことができる最後の希望だ》
《だがマザーの断片を持ち帰ることはできない。……この世界に置いていかなければならない》
ティアとルナを置いていけ、と。
《……シン》
ティアの声が震えている。
ルナが俺の服を強く握りしめた。
俺の目の前には故郷へと続く道がある。
長かった戦いを終え、全てを忘れ元の日常へと戻る道が。
だが。
俺はM9を生成した。
そしてその銃口を装置の制御パネルへと向ける。
「……シン……?」
俺は何も言わずに引き金を引いた。
乾いた発射音が静寂を破る。
制御パネルが火花を散らし砕け散った。
故郷への道は永遠に閉ざされた。
『……帰る場所はもうどこにもない』
『俺の帰る場所は、お前たちがいるここだ』
俺はルナに向き直った
その瞬間、ルナは泣きながら俺の胸に飛び込んできた。
俺は、その小さな体を強く抱きしめる。
そして俺の脳裏で、俺だけに見えるティアのホログラムの瞳から、一筋、光の雫がこぼれ落ちるのを見ていた。
◇
――さらに数年後。
世界のどこか、名前もない森の奥。
小さなログハウスの煙突から白い煙が立ち上っていた。
「シン!見て!こんなに採れた!」
少しだけ背の伸びたルナが木苺で一杯になった籠を誇らしげに見せてくる。
俺は頷きながら彼女の頭を撫でた。
『シン。そろそろ冬支度の時間ですね』
脳内に響く優しい声。
それはもう無機質なAIの声ではなかった。
『そうだな。……薪を割らないと』
俺は立ち上がり空を見上げた。
どこまでも青く澄み渡った空。
戦いのない穏やかな空。
俺はもう兵士ではない。
ただこの小さな世界で、大切な家族を守る一人の男だ。
俺の本当の戦いは終わり、そして本当の人生が始まった。
「今日の夕飯はシチューがいいな」
「うん!」
『……仕方ありませんね。シン、私が最高のレシピを検索します。あなたは、私の指示通りに、手を動かすだけですよ』
俺とルナの笑い声が、静かな森に響き渡った。
そして俺の脳裏では。
ティアの楽しそうなクスクスという笑い声も聞こえていた。
それは、この世界で俺だけが聞くことのできる、ありふれていて、そして何よりもかけがえのない幸せの音だった。
――物語・完――




