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第5話「腐敗の地図」

リグランの夜は、思ったよりも深い闇をしていた。


表通りから一本入っただけの裏路地は、まるで街の光から見捨てられたかのように、濃い影に沈んでいる。

俺はエリーナを連れ、そんな闇から闇へと縫うようにして歩いていた。


「はぁ……っ、はぁ……」


隣で、か細い呼吸が聞こえる。

恐怖と疲労で、足元がおぼつかないのだろう。

時折、石畳の僅かな凹凸につまずきそうになるのを、俺は腕を掴んで無言で支えた。


優しさからではない。

彼女が転んで無用な音を立てるのを防ぐためだ。それだけだ。


エリーナは、俺の横顔を怯えたように見上げていた。

自分を攫った男たちを、音もなく、躊躇いもなく殺した男。

フードの奥から覗くその目は、感情というものが抜け落ちた、ガラス玉のように冷たい。


恐怖。

しかし、それだけではない。

この男がいなければ、自分は今頃どこかの暗い荷馬車に揺られ、商品として売られる運命にあった。

その事実が、彼女の中で恐怖と奇妙な安堵感をないまぜにしていた。


(……この男は、一体……)


彼女の思考など知る由もなく、俺はただ、脳内の相棒と対話していた。


『ティア、この周辺で最適な潜伏場所は?』


《条件に基づき、候補を三件提示します》


《第一候補は、廃業した倉庫。隠密性は高いですが、生活環境は劣悪です》

《第二候補は、下級市民向けの集合住宅の空き部屋。ですが、隣人からの干渉リスクがあります》

《第三候補は、この先の”黒猫の寝床亭”。街で最も安い木賃宿の一つです》


俺の視界に、街の簡易マップと三つの候補地点がハイライトされる。


《”黒猫の寝床亭”を推奨します》

《宿泊客は日雇い労働者や素性の知れない流れ者が多く、互いに無干渉》


《宿の主人も金さえ払えば客の事情に深入りしないという情報を、過去の宿泊者の会話ログから取得済みです》

《また、裏手には複数の脱出経路を確保できます》


『そこにする』


俺は短い応答だけを脳内で返し、エリーナの腕を引いて歩く速度を少し上げた。


目的地である「黒猫の寝床亭」は、今にも崩れそうな二階建ての木造建築だった。

看板の文字は掠れ、扉は油の切れた軋む音を立てる。

中に入ると、安酒と埃の混じった匂いが鼻を突いた。


カウンターの奥で、眠そうな目をした猫背の宿主が、こちらを値踏みするように一瞥する。


「一部屋、頼む」


俺が銅貨を数枚カウンターに置くと、宿主は無言で鍵を一つ滑らせてきた。

それ以上の会話はない。

ティアの分析通り、互いに無干渉。好都合だ。


案内された部屋は、屋根裏に近い二階の突き当たりだった。

ベッドが一つと、脚のぐらついた椅子が一つ。

窓の外では、風がヒューヒューと鳴っている。

お世辞にも快適とは言えないが、潜伏場所としては十分すぎる。


俺は部屋に入るなり、まず窓と扉の立て付けを確認し、椅子をドアの前に引きずってそこに腰を下ろした。

いつでも応戦できる、定位置だ。


ベッドを指さし、エリーナに無言で促す。

彼女は一瞬戸惑ったが、俺が椅子に座ったまま動く気がないことを察すると、おそるおそるベッドの端に腰掛けた。


部屋に、重い沈黙が落ちる。

エリーナは自分のドレスの裾を固く握りしめ、俯いていた。

俺はその沈黙を破る。


「話せ」


短く、命令する。


「お前の知っていることを、全てだ。

”ジューミ商会”、お前の父親、この街の裏社会。

見たもの、聞いたもの、些細な噂でも構わん。

洗いざらい話せ」


エリーナの肩が、びくりと震えた。

これが尋問なのだと、彼女は理解したのだろう。

観念したように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「……父、アルフォンス・フォン・リグランは、この街を心から愛していました。

ですが、三年ほど前から、”ジューミ商会”が急速に力をつけ始め……街の経済を牛耳るようになっていったのです。

商会の会頭は、バルトロメオという男。元々は流れ者の行商人だったはずが、どこからか莫大な資金を得て、瞬く間に街の商業ギルドを支配下に置きました」


俺は黙って聞いている。

エリーナの言葉は、全てティアによって記録され、リアルタイムで分析されていく。


「父は、そのバルトロメオのやり方を危険視していました。

強引な地上げ、競合店の買収……逆らう者は、みんないつの間にか街から姿を消すのです。

父は、バルトロメオの背後に、誰か有力な貴族がいると睨んでいました」


「貴族の名は?」


俺の鋭い問いに、エリーナは息を呑んだ。


「……確証はありません。ですが、父が最後に調べていたのは、この地域に広大な領地を持つ、バレリウス男爵という人物でした。

中央の政治にも影響力を持つ大貴族だと聞いています。ですが、その男爵が、なぜこんな辺境の街の商人と……」


「金だ。それだけのことだ」


俺が冷たく断言すると、エリーナは唇を噛んだ。


「父も、そう考えていたようです。だから、商会の金の流れを必死に追っていました。

そして……一月前、”決定的な証拠を掴んだ”と私にだけ告げた翌日、父は視察の途中、護衛ごと姿を消したのです」


彼女の声が震える。


「私は、父が攫われたのだと確信しました。

衛兵に訴えても、まともに取り合ってはくれません。彼らも、商会か男爵に買収されているのです。

だから、自分で……父の書斎に残された資料を元に、商会のことを……」


そこまで話すと、彼女は俯いてしまった。

無謀な調査の末路が、先ほどの路地裏での一件だ。


俺は、エリーナから得た情報を脳内で整理する。


『ティア。今の証言と、これまでに収集したデータを統合しろ。関連性を洗い出し、結論を述べろ』


《了解。統合解析を開始……完了しました》


ティアの無機質な声と共に、俺の視界にリグランの街の立体地図が展開された。

地図上には、三つの建物が赤く点灯している。

街の中心にそびえる”ジューミ商会本部”。

貴族街の一角にある、今は使われていないはずの”バレリウス男爵の別邸”。

そして、貧民街の近くに広がる”奴隷市場”。


《エリーナ嬢の証言には、92%の信憑性があります》

《彼女の情報と、我々が収集した街の金の流れ、人の流れを統合した結果、明確な相関関係が浮かび上がりました》


三つの赤い点の間に、光の線が走り始める。


《まず、ジューミ商会からバレリウス男爵の別邸へ、定期的な資金の移動を確認》

《これは、商会の裏帳簿から推測される上納金でしょう》

《次いで、男爵の別邸から衛兵詰所の一部幹部へ、金の流れが分岐。これで、衛兵が機能しない理由が説明できます》


《そして最も重要なのが、人の流れです。商会に逆らって行方不明になった人物、その失踪時刻とほぼ同時に、奴隷市場に”新規商品”として素性の不明な人間が登録されているケースが複数確認されました》

《失踪者たちは、商会によって拉致され、奴隷として売りさばかれている可能性が極めて高いと判断します》


光の線が、三つの点を結び、黒く染まった三角形を描き出す。

腐敗の地図。

この街を蝕む、悪意のネットワークだ。


《結論を提示します。この三つの拠点は、一体となって機能する犯罪組織です》

《ジューミ商会が実行部隊と資金源、バレリウス男爵が権力による庇護、そして奴隷市場が証拠の隠滅と追加の資金源》

《子爵アルフォンスは、このトライアングルを暴こうとしたため、排除されたものと推定されます》


『……なるほどな。わかりやすい構図だ』


俺は椅子に座ったまま、腕を組む。

全てが明確になった。やるべきことも、自ずと決まる。


エリーナが、不安そうな顔で俺を見上げていた。

俺が何を見ているのか、彼女にはわからない。

ただ、俺の周りの空気が、先ほどよりもさらに冷たく、鋭くなったのを感じ取っていた。


「あ、あの……」


彼女がおそるおそる口を開く。

俺は彼女の言葉を待たず、ティアに指示を出した。


『ティア。この三つの拠点を同時に、あるいは連続して無力化する作戦プランを立案しろ。

最優先事項は、俺の目的達成、すなわち、この街の裏社会に関する全ての情報と、利用可能な素材の確保だ。

子爵の救出は、作戦の副次的な目標に設定しろ』


《了解。作戦プランの構築を開始。各拠点の警備レベル、構造、予想される抵抗から、最適な攻撃順序と戦術をシミュレートします》


エリーナは、俺が微動だにせず黙っているのを見て、不思議そうな顔をしている。

俺はそんな彼女を一瞥し、静かに言った。


「今夜はここで、息を殺して隠れていろ。一歩も外へ出るな」


「あ、あなたは……どこへ?」


「散歩だ」


俺は短く答えると、椅子から立ち上がった。

エリーナが、何かに気づいたように、はっとした顔になる。


「ま、待ってください! 商会に乗り込むおつもりですか!? 無謀です!

彼らは衛兵だけでなく、屈強な傭兵も多数雇っています! あなた一人では……!」


「一人じゃない」


俺は、自分のこめかみを軽く指で叩く。


「俺には、最強の相棒がいる」


エリーナには、その言葉の意味が理解できないだろう。

それでいい。


《シミュレーション完了。最も効率的かつ安全に情報を確保できる初期ターゲットを特定しました》

《ジューミ商会本部……ではなく、彼らが管理する街の南地区にある、第3物資倉庫です》


《本部よりも警備が手薄でありながら、裏取引の現物や帳簿の一部が保管されている可能性が高い》

《ここを叩くことで、相手にこちらの戦力を誤認させ、今後の作戦を有利に進めることができます》


『……いいだろう。そのプランを採用する』


俺はフードを深く被り直し、部屋の扉に手をかける。


「……必ず、戻ってきて……くださいね」


背後から、か細い声が聞こえた。

俺は振り返らず、ただ一言だけ返す。


「当たり前だ。お前という”ツール”から、まだ情報を引き出しきれていないからな」


冷たい言葉を残し、俺は音もなく部屋を出た。

軋む廊下を抜け、再びリグランの夜の闇へと溶け込んでいく。


目的地は、第3倉庫。

腐敗した巨大な蛇の、尻尾の先を切り落としに行く。


静かな、掃除の時間だ。

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