第48話「プロの取引」
冒険者たちの歓喜の声が、夜のオルグに木霊していた。
だが、その喧騒は俺のいる宿屋までは届かない。勝利に沸く街の熱気とは裏腹に、俺の思考は冷え切っていた。
部屋に戻ると、ルナがベッドの上で小さな寝息を立てていた。
俺が外套を脱ぐ、ごくわずかな物音に、彼女の肩がびくりと震える。その寝顔は、まだ安らかではなかった。
(……この寝顔を、守る、か)
柄にもない感傷だ。
だが、俺の心の中に芽生えた、その小さな変化を否定することはできなかった。
『ティア。状況を整理しろ』
《はい。先ほどの戦闘データと、街の防衛能力を統合。再シミュレーションを実行します》
ティアの冷静な声。
俺の視界に、オルグの街の立体地図と、無数の赤い光点が、表示される。
《結論から述べます。先遣隊は撃退しましたが、街の防衛網は、ほぼ限界です》
《矢は尽きかけ、負傷者も多数。何より、指揮官個体であるソルジャーアントを、自力で撃破できなかったという事実が、彼らの士気を、著しく低下させています》
『……だろうな。あの絶望感を、一度味わえば次はない』
《このままでは、ドレッドアントの本隊による”スタンピード”が発生した場合、街の陥落は時間の問題です》
ティアの冷徹な事実。
そして、それは俺たちの旅路の終わりをも意味していた。
『……選択肢は、一つしかない、ということか』
《はい。最も合理的、かつ、唯一の生存戦略は、スタンピード発生前に、敵の中枢……ドレッドアント・クイーンを、排除することです》
俺の思考とティアの分析が、完全に一致する。
俺は立ち上がった。
『行くぞ』
《お待ちください、シン》
ティアの、制止。
《あなた一人で、女王の元へ、たどり着くことは可能です。ですが、無数の罠の解除とフェロモンによる方向感覚の喪失で、作戦時間は最低でも12時間以上を要し、弾薬とエネルギーの消耗は、80%を超えます。……あまりにも非効率的です》
『……なら、どうしろと?』
《……シン。提案します》
ティアの声が、俺の思考を肯定する。
《Bランクパーティ「クリムゾン・ホーク」。彼らは、この巣から生還した唯一の生存者です》
《彼らが持つ罠の位置や、フェロモンの影響を受けないルートといった”生きた情報”は、我々の作戦時間を、四分の一以下に短縮しリスクを限りなくゼロに近づけます》
《彼らを”案内役”として利用することを強く推奨します》
俺の口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
『……そうか。……そういうことか』
俺はフードを目深に被った。
交渉の時間だ。
◇
翌日の昼。
冒険者ギルドの酒場は、昨夜の小さな勝利が嘘のように、重苦しい絶望に満ちていた。誰もが次に来るであろう本当の脅威に怯えていた。
俺はその片隅で一人地図を睨みつけていた「クリムゾン・ホーク」のリーダー、ギデオンの向かいの席に無言で腰を下ろした。
「……何の用だ。見ての通り取り込み中だ」
ギデオンが低い声で、俺を睨みつける。
彼の自慢の盾には、昨夜の戦闘で刻まれた生々しい亀裂が入っていた。
「……あんたは、昨日の酒場にいた……」
「あんた、昨日の騒ぎの中、妙に落ち着いていたな……」
斥候のカイルが、俺の顔を、じっと睨みつける。
「あの時、衛兵が飛び込んできた時、誰もが浮き足立った。……だが、あんただけは違った。……まるで、全てを知っているような顔だったぜ。……あんた一体何者なんだ?」
「……お前たちの”情報”が欲しい」
俺は単刀直入に切り出した。
そして俺は腰のナイフを抜き、その切っ先でテーブルの木目に直接、地図を刻み始めた。
ティアがドローンで作成した完璧な巣のマップを、俺は寸分の狂いもなく木屑を散らしながら再現していく。
「……!?」
俺が描き進めるにつれて、ギデオンだけでなく、カイルとリアも息を呑むのが分かった。
それは彼らが命懸けで手に入れた断片的な情報とは、比較にならないほど正確で詳細な地図だったからだ。
「……な……なんで、あんたが、それを……。まるで巣の中を見てきたみたいじゃねぇか……」
「俺は、この巣の全てを知っている。女王の首を狩ることも造作もない」
俺は地図を描き終えると、彼らを冷たく見据えた。
「だが、面倒な罠を一つ一つ解除するのは時間の無駄だ」
「お前たちが、俺の”露払い”をしろ。お前たちの経験で安全なルートを確保しろ」
「そうすればお前たちの仲間の仇である、女王の首を俺がくれてやる」
それは交渉ではなかった。
絶対的な強者からの提案。
ギルドの中が静まり返る。
ギデオンは、しばらく黙って俺の描いた地図と俺の顔を見比べていた。
彼の脳裏を仲間の最後の姿がよぎっているのだろう。
そして、ふっと息を吐くと、不敵な笑みを浮かべた。
「……面白い。……気に入ったぜ、あんた」
「……いいだろう。その取引乗ってやる。……だが、一つ言っておく」
彼の目が光を宿す。
「俺たちは、あんたの駒じゃねぇ。……対等なパートナーとして、背中を預けさせてくれ。……それでいいな?」
リーダーとしての、プライド。
俺は静かに頷いた。
「……それで、手を打とう」
俺は右手を差し出した。
ギデオンも、その分厚い戦士の手で俺の手を強く握り返した。
それは奇妙な同盟が、結ばれた瞬間だった。
俺たちはギルドの奥の作戦室へと向かった。
絶望的な戦況。
だが、その分厚い雲の隙間から、ほんのわずかな光が差し込もうとしていた。




