第46話「クリムゾン・ホーク」
ルナと過ごした穏やかな一日が暮れていく。
夕食を終え、俺はルナを宿屋の部屋に残し、一人で夜の街へと繰り出していた。
「いい子にしてろ。すぐに戻る」
「……うん」
こくりと頷いたルナの頭を一度だけ撫で、俺は部屋の扉を閉めた。
彼女の安全はティアが常にモニタリングしている。心配はない。
俺の目的は一つ。
この先の灼熱の砂漠を越えるための情報収集だ。
『ティア。この街で最も効率的に”生きた情報”が手に入る場所は』
《回答します。冒険者ギルドに併設された酒場です》
ティアの滑らかな声が脳内に響く。
《そこには砂漠を踏破した経験を持つベテランの冒険者や、隊商の護衛たちが集まります》
《彼らの何気ない会話の中にこそ、地図には載らない貴重な情報が含まれている可能性が極めて高いです》
『なら話は早い。ドローンを向かわせろ。壁の外から中の会話を拾えるだろう』
俺の兵士としての合理的な提案。
だがティアはそれを静かに否定した。
《……シン。それは不可能です》
《私のドローンはあくまで”観測機”です。遠距離からの映像や大まかな音の観測は可能ですが……》
《酒場のような複数の音源が混在する閉鎖空間では、外部から特定の会話だけを分離・抽出することは物理的に不可能です。全てが意味のない”雑音”として記録されるだけです》
なるほどな。
つまり遠くからでは誰が何を話しているかまでは分からない、と。
《ですがあなたが”受信機”としてその場にいる場合は別です》
ティアの声には絶対的な自信が滲んでいた。
《あなたの聴覚をフィルターとして利用し、周囲の会話の中から必要なキーワードだけをリアルタイムで抽出します》
《……あなたはただ酒を飲んでいれば、この街の全ての情報が手に入るのです》
『……つまり俺自身が高性能な盗聴器になれ、と。……相変わらずとんでもない耳だな、お前は』
《お褒めに預かり光栄です》
軽口を叩きながら俺はギルドの扉を押し開けた。
昼間とは打って変わって中はむせ返るような熱気に満ちていた。
酒と汗の匂い。
冒険者たちの高らかな笑い声と怒声。
俺はカウンターでエールを一杯注文すると、一番目立たない隅のテーブルへと腰を下ろした。
そして意識を周囲の喧騒へと向ける。
俺の視界の隅に半透明のウィンドウが開き、ティアが抽出した会話のログが猛烈な勢いで流れ始めた。
だがそのほとんどが取るに足らない情報だった。
砂漠の暑さへの愚痴。
新しい水袋の自慢話。
そんな他愛もない会話の中に突如、俺の注意を引く単語が現れた。
”ドレッドアント”。
その単語はまるで呪いのように酒場の中のあちこちで囁かれていた。
その声はどれも一様に暗く、そして恐怖に満ちていた。
「……またやられたらしいぜ。南の第七交易所が昨日の夜、ドレッドアントの大群に襲われて壊滅したってよ」
「嘘だろ!?あそこは街から一番近い交易所だぞ!?」
「もう連中の縄張りは街のすぐそこまで来てるってことだ……」
俺はエールを一口飲む。
状況は俺が思ったよりも遥かに深刻らしい。
その時。
俺の視線が一つのテーブルに引きつけられた。
酒場の喧騒の中でそこだけがまるで時間が止まったかのように、重い沈黙に支配されていた。
三人の冒険者。
一人は屈強な体格をした戦士風の男。テーブルに巨大な盾斧を立てかけ虚ろな目でジョッキを見つめている。
一人は神官服を身にまとった若い女。俯きただ静かに涙を流していた。
そしてもう一人。斥候風の軽装の男が忌々しげに舌打ちをしながらエールを呷っている。
『……ティア。あのパーティをスキャンしろ』
《了解。……対象の装備及びギルド登録情報と照合》
《……Bランクパーティ、「クリムゾン・ホーク」。リーダーは盾斧使いのギデオン。神官リア。斥候カイル》
《……ですがシン。彼らの本来のパーティ構成は四人のはずです。……もう一人魔法使いがいた記録が》
ティアの報告。
それを裏付けるように三人の沈黙を破ったのは斥候のカイルだった。
「……クソッ!……なんでレオが死ななきゃならなかったんだ!」
叩きつけるような声。
神官のリアがびくりと肩を震わせた。
「……カイルやめて。……彼の死を無駄にしないで……」
「無駄にするなって!?……じゃあどうしろって言うんだリア!」
「あんな化け物の群れに、俺たちだけでどうやってリベンジしろって言うんだよ!」
「……」
リーダーのギデオンは何も言わず、ただ拳を固く握りしめていた。
その指の関節が白く変色している。
ドレッドアント。
仲間を失ったパーティ。
状況は読めた。
『ティア。ドレッドアントの情報を統合しろ。……奴らの巣の位置は』
《……オルグの南東。……シン、それは我々が次の遺跡へと向かう、最短ルート上に存在します》
『……そうか』
俺はエールを飲み干した。
面倒なことになった。
この問題はもう他人事ではない。
俺たちがこの街を出るためには、あの蟻の巣をどうにかしなければならない。
その時ギルドの扉が勢いよく開かれた。
血相を変えた衛兵が転がり込んでくる。
「……大変だ!南の壁にドレッドアントの先遣隊が現れた!」
「数は百を超える!」
その絶叫に酒場の中が一瞬で凍りついた。
静寂を破ったのはギデオンだった。
「……行くぞ」
彼は巨大な盾斧を手に取ると静かに立ち上がった。
その目には絶望ではなく、戦士としての決意の光が宿っていた。
「……レオの弔いだ」
リアとカイルも覚悟を決めたように頷く。
俺はその三人の背中を静かに見つめていた。
(……プロの目だ)
死地に向かう者の目。
俺は銅貨をテーブルに置くと音もなく立ち上がった。
この街の問題にこれ以上深入りするつもりはない。
だが。
『ティア。ドレッドアントの戦闘データを収集する。……奴らの弱点を割り出せ』
《了解。……観測モードに移行します》
俺の兵士としての本能が告げていた。
この戦いはまだ序章に過ぎない、と。
街を飲み込もうとする巨大な脅威。
その最初の牙が今、剥き出しにされようとしていた。




