第45話「少女と市場」
翌朝、俺は宿のベッドで目を覚ました。
窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らしている。隣の簡易ベッドでは、ルナが静かな寝息を立てていた。その寝顔は、昨日までの張り詰めた表情が嘘のように、穏やかだ。
『おはよう、シン』
脳内に、ティアの滑らかな声が響く。
拡張モジュールを吸収して以来、彼女の声は、驚くほど人間味を帯びていた。
『ああ、おはよう。……ルナの状態は?』
《バイタルサインは、完全に安定。睡眠深度も良好です。ですが、精神的な疲労は、まだ根深い。昨日シンが提案した通り、今日も一日、休養に充てることを推奨します》
『分かっている。……だが、このまま宿に閉じこもっていても、気は休まらんだろう』
俺はベッドから身を起こし、窓の外を見下ろした。
朝の市場へ向かう人々の、活気ある声が聞こえてくる。昨日までの俺なら、決して関わろうとしなかった”日常”の光景だ。
(……だが、今の俺には、こいつがいる)
俺は眠るルナに、視線を落とす。
このままでは、また同じことの繰り返しだ。戦い移動し、そしてまた戦う。そんな生活の中で、この少女の凍りついた心は、決して溶けることはないだろう。
『ティア。この街の、市場の情報をスキャンしろ。……服と靴。それから、何か温かいものが食える場所だ』
《……了解しました。……シン、それは合理的かつ有効な判断です》
ティアの声には、どこか安堵の色が滲んでいるように聞こえた。
◇
俺はルナを連れて、市場の大通りを歩いていた。
昨日手に入れた金貨で、まずは身なりを整える。
「……」
ルナは俺の一歩後ろを俯きながらついてくる。
その手は俺の外套の裾を固く握りしめていた。
人混みが怖いのだろう。
『……ティア。推奨ルートは』
《前方、三十メートル先。右手にある、衣料品店。この街では比較的、品揃えが豊富で評判も良いようです》
ティアのナビゲートに従い、俺は一軒の店の前で足を止めた。
女店主が愛想よく声をかけてくる。
「あら、お客さん。旅の方かい?……あらあら、可愛いお嬢ちゃんだねぇ」
店主の視線が、ルナへと注がれる。
ルナはびくりと体を震わせ、俺の背後へと隠れた。
「……すまない。この子に合う服を見繕ってほしい。……丈夫で、動きやすいものを」
俺のぶっきらぼうな注文。
だが、店主は嫌な顔一つせずにこやかに頷いた。
「はいはい。任せときな。……さあ、おいでお嬢ちゃん。こわくないよ」
店主はルナの目線まで屈むと、優しく語りかけた。
ルナはおずおずと俺の背後から顔を覗かせる。
『シン。彼女の心拍数が、少し上昇しています。ですが、危険なレベルではありません』
(……分かっている)
店主が何着か子供用のワンピースや、チュニックを持ってきた。
どれも色鮮やかで、可愛らしいデザインだ。
「さあ、どれがいいかね?好きなのを選んでごらん」
「……」
ルナはただ黙って、首を横に振るだけだった。
自分で何かを選ぶという経験がないのだろう。
『……ティア。推奨は?』
《……素材の耐久性と砂漠地帯での通気性を考慮すると、この茶色のチュニックが最も合理的です。ですが……》
ティアが、言葉を、濁す。
《……ですが、シン。……ルナの視線は一点に固定されています》
俺は、ティアが示す方向へと目を向けた。
ルナの灰色の瞳が、店の隅に飾られた、一枚のワンピースをじっと見つめていた。
それは、夜空のような深い青色をしたワンピース。
裾には銀色の糸で、星の刺繍が施されている。
合理的じゃない。
旅には不向きだ。
汚れが目立つ。
俺の兵士としての思考が、それを否定する。
だが。
「……あれを試着させてやってくれ」
俺の口から出たのは、そんな言葉だった。
店主は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑った。
「……はいよ!」
試着室から出てきたルナの姿に、俺は思わず息を呑んだ。
薄汚れた研究着とは違う。
深い青色のワンピースが、彼女の銀色の髪と白い肌を際立たせている。
それは、まるで夜空に浮かぶ月のようだった。
「……まあ、よく似合うじゃないか!」
店主が手放しで褒める。
ルナは戸惑ったように俯き、自分のワンピースの裾を見つめていた。
その小さな横顔に、ほんのわずかに朱が差しているのを俺は見逃さなかった。
俺は、そのワンピースの他にティアが推奨した丈夫なチュニックと、ズボン、下着、そして新しい靴を数着ずつ買った。
金貨で代金を支払うと、店主は目を丸くしていた。
◇
昼食は市場の一角にある小さな食堂で摂ることにした。
香ばしいスパイスの香りが、食欲をそそる。
「はいよ、お待ちどう!特製のロックリザードのシチューだ!」
威勢のいい、店主の声。
俺たちのテーブルに、湯気の立つ二つの器が置かれた。
分厚い肉と野菜が、ごろごろと入った具沢山のシチュー。
ルナは恐る恐る、スプーンを手に取った。
そして一口シチューを口に運ぶ。
その灰色の瞳が、驚きで大きく見開かれた。
「……おいしい……」
初めて聞いた。
彼女の感情がこもった言葉。
それから彼女は、夢中でシチューを食べ始めた。
その姿は、もう怯えた小動物ではなかった。
ただ、美味しいものを食べる一人の少女だった。
《……ルナのストレスレベルが、大幅に低下。セロトニンの分泌が活発化しています》
ティアの嬉しそうな報告。
俺は何も言わず自分のシチューを口に運んだ。
それは、ただ腹を満たすための燃料ではなかった。
どこか温かい味がした。
食事を終え宿への帰り道。
ルナは、もう俺の外套の裾を握ってはいなかった。
その小さな手は、俺のごつごつとした兵士の手をしっかりと握りしめていた。
その温もりが、なぜか、ひどく懐かしい気がした。
(……悪くない)
俺は空を見上げた。
オルグの空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
この束の間の平穏が、嵐の前の静けさだとしても。
今は、ただ、この温もりを感じていたかった。




