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第45話「少女と市場」

 翌朝、俺は宿のベッドで目を覚ました。

 窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らしている。隣の簡易ベッドでは、ルナが静かな寝息を立てていた。その寝顔は、昨日までの張り詰めた表情が嘘のように、穏やかだ。


『おはよう、シン』


 脳内に、ティアの滑らかな声が響く。

 拡張モジュールを吸収して以来、彼女の声は、驚くほど人間味を帯びていた。


『ああ、おはよう。……ルナの状態は?』


《バイタルサインは、完全に安定。睡眠深度も良好です。ですが、精神的な疲労は、まだ根深い。昨日シンが提案した通り、今日も一日、休養に充てることを推奨します》


『分かっている。……だが、このまま宿に閉じこもっていても、気は休まらんだろう』


 俺はベッドから身を起こし、窓の外を見下ろした。

 朝の市場へ向かう人々の、活気ある声が聞こえてくる。昨日までの俺なら、決して関わろうとしなかった”日常”の光景だ。


(……だが、今の俺には、こいつがいる)


 俺は眠るルナに、視線を落とす。

 このままでは、また同じことの繰り返しだ。戦い移動し、そしてまた戦う。そんな生活の中で、この少女の凍りついた心は、決して溶けることはないだろう。


『ティア。この街の、市場の情報をスキャンしろ。……服と靴。それから、何か温かいものが食える場所だ』


《……了解しました。……シン、それは合理的かつ有効な判断です》


 ティアの声には、どこか安堵の色が滲んでいるように聞こえた。



 俺はルナを連れて、市場の大通りを歩いていた。

 昨日手に入れた金貨で、まずは身なりを整える。


「……」


 ルナは俺の一歩後ろを俯きながらついてくる。

 その手は俺の外套の裾を固く握りしめていた。

 人混みが怖いのだろう。


『……ティア。推奨ルートは』


《前方、三十メートル先。右手にある、衣料品店。この街では比較的、品揃えが豊富で評判も良いようです》


 ティアのナビゲートに従い、俺は一軒の店の前で足を止めた。

 女店主が愛想よく声をかけてくる。


「あら、お客さん。旅の方かい?……あらあら、可愛いお嬢ちゃんだねぇ」


 店主の視線が、ルナへと注がれる。

 ルナはびくりと体を震わせ、俺の背後へと隠れた。


「……すまない。この子に合う服を見繕ってほしい。……丈夫で、動きやすいものを」


 俺のぶっきらぼうな注文。

 だが、店主は嫌な顔一つせずにこやかに頷いた。


「はいはい。任せときな。……さあ、おいでお嬢ちゃん。こわくないよ」


 店主はルナの目線まで屈むと、優しく語りかけた。

 ルナはおずおずと俺の背後から顔を覗かせる。


『シン。彼女の心拍数が、少し上昇しています。ですが、危険なレベルではありません』


(……分かっている)


 店主が何着か子供用のワンピースや、チュニックを持ってきた。

 どれも色鮮やかで、可愛らしいデザインだ。


「さあ、どれがいいかね?好きなのを選んでごらん」


「……」


 ルナはただ黙って、首を横に振るだけだった。

 自分で何かを選ぶという経験がないのだろう。


『……ティア。推奨は?』


《……素材の耐久性と砂漠地帯での通気性を考慮すると、この茶色のチュニックが最も合理的です。ですが……》


 ティアが、言葉を、濁す。


《……ですが、シン。……ルナの視線は一点に固定されています》


 俺は、ティアが示す方向へと目を向けた。

 ルナの灰色の瞳が、店の隅に飾られた、一枚のワンピースをじっと見つめていた。

 それは、夜空のような深い青色をしたワンピース。

 裾には銀色の糸で、星の刺繍が施されている。


 合理的じゃない。

 旅には不向きだ。

 汚れが目立つ。


 俺の兵士としての思考が、それを否定する。

 だが。


「……あれを試着させてやってくれ」


 俺の口から出たのは、そんな言葉だった。

 店主は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑った。


「……はいよ!」


 試着室から出てきたルナの姿に、俺は思わず息を呑んだ。

 薄汚れた研究着とは違う。

 深い青色のワンピースが、彼女の銀色の髪と白い肌を際立たせている。

 それは、まるで夜空に浮かぶ月のようだった。


「……まあ、よく似合うじゃないか!」


 店主が手放しで褒める。

 ルナは戸惑ったように俯き、自分のワンピースの裾を見つめていた。

 その小さな横顔に、ほんのわずかに朱が差しているのを俺は見逃さなかった。


 俺は、そのワンピースの他にティアが推奨した丈夫なチュニックと、ズボン、下着、そして新しい靴を数着ずつ買った。

 金貨で代金を支払うと、店主は目を丸くしていた。



 昼食は市場の一角にある小さな食堂で摂ることにした。

 香ばしいスパイスの香りが、食欲をそそる。


「はいよ、お待ちどう!特製のロックリザードのシチューだ!」


 威勢のいい、店主の声。

 俺たちのテーブルに、湯気の立つ二つの器が置かれた。

 分厚い肉と野菜が、ごろごろと入った具沢山のシチュー。


 ルナは恐る恐る、スプーンを手に取った。

 そして一口シチューを口に運ぶ。

 その灰色の瞳が、驚きで大きく見開かれた。


「……おいしい……」


 初めて聞いた。

 彼女の感情がこもった言葉。

 それから彼女は、夢中でシチューを食べ始めた。

 その姿は、もう怯えた小動物ではなかった。

 ただ、美味しいものを食べる一人の少女だった。


《……ルナのストレスレベルが、大幅に低下。セロトニンの分泌が活発化しています》


 ティアの嬉しそうな報告。

 俺は何も言わず自分のシチューを口に運んだ。

 それは、ただ腹を満たすための燃料ではなかった。

 どこか温かい味がした。


 食事を終え宿への帰り道。

 ルナは、もう俺の外套の裾を握ってはいなかった。

 その小さな手は、俺のごつごつとした兵士の手をしっかりと握りしめていた。

 その温もりが、なぜか、ひどく懐かしい気がした。


(……悪くない)


 俺は空を見上げた。

 オルグの空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

 この束の間の平穏が、嵐の前の静けさだとしても。

 今は、ただ、この温もりを感じていたかった。

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