第41話「閑話:それぞれの天秤」
シンが竜の顎山脈へと姿を消してから、数週間が過ぎた頃。
彼が残した巨大な波紋は、二つの全く異なる中心地で静かに、しかし確実にそのうねりを広げていた。
◇
商業都市ゼノア。
かつて街を覆っていた鍛冶師ギルドによる圧政の空気は、もはやどこにもない。代わりに街のあちこちから聞こえてくるのは、活気に満ちた力強い槌の音だった。
その中心にいるのは一人の若い女鍛冶師、ライラ・フォルクヴァング。
彼女の工房は今や「ゼノア工房連盟」の本部として、多くの職人たちで賑わっていた。
「おいライラ!この魔導金属の配合、どう思う!?」
「こっちの鎧の設計、少し見てくれないか!」
飛び交う怒号のような質問に、ライラは的確な指示を返していく。
「その配合じゃ強度が足りないわ!純度をもう少し上げて、冷却時間を短くして!」
「その肩当てのデザインは駄目!動きを阻害するだけよ。もっとシンプルに、機能性を重視して!」
その姿はかつて工房の隅で、クズ鉄を叩いていた孤独な少女の面影はない。
自信に満ちた、若きリーダーの顔だった。
夜。
職人たちが帰り静けさを取り戻した工房で、ライラは一人一枚の羊皮紙を広げていた。
シンが最後に彼女に託した、”部品”の設計図。
それは彼女が持つありとあらゆる鍛冶の知識を、遥かに超越した異次元の産物だった。
(……一体どうすれば、こんなものが作れるの……)
それは武器というよりも、精密な機械だった。
歯車やシリンダー、エネルギー伝導路。その一つ一つが、寸分の狂いもなく組み合わさっている。
だが不思議と絶望はなかった。
むしろ彼女の心は鍛冶師としての、純粋な闘志に燃えていた。
(……待ってなさいよ、シン)
彼女は壁に掛けられた道具掛けの一角を見上げた。そこには一本だけ、ナイフが置かれていた場所がぽっかりと空いている。
シンが彼女の”腕”を認め、そして彼女に未来をくれた証。あの男にお守りとして渡した、始まりの一本。
(あんたがいつかこの街に帰ってきた時。……ううん、私があんたに追いついた時。世界がひっくり返るような、最高の”作品”を打ち上げてみせるんだから)
ライラの瞳に炉の炎が、赤々と映り込んでいた。
シンが蒔いた種は、このゼノアの地で確かに力強い希望の芽を育んでいた。
◇
一方。
大陸中央に位置する、エルミナ王国の王都。
その玉座の間はゼノアの活気とは対照的な、冷たく重い沈黙に支配されていた。
玉座に座るのは若き新国王、アリアス・フォン・エルミナ。
先王であった父が異世界からの召喚者の暴走によって崩御した後、彼は若くしてこの国の重い舵を取ることになった。
彼の目の前には一人の男が、跪いている。
王国の諜報機関「王の影」を束ねる長官だ。
「……報告を聞こう」
アリアス王の静かな声が響く。
「はっ。……先日商業都市ゼノアにて、Sランク傭兵団『鉄の牙』が壊滅した件。その続報にございます」
その言葉に玉座の間に控える大臣たちが、息を呑んだ。
「調査の結果『鉄の牙』を壊滅させたのは、やはり一人の正体不明の人物であったことが確定いたしました。……街では”幻影”と呼ばれ、災厄の化身として恐れられております」
「……その”幻影”とやらが、父王を手にかけこの王都から逃亡した、あの召喚者だと言うのだな」
「……その可能性が極めて高いと思われます。……我らが召喚した”勇者”は、我らの制御を完全に超えました。……彼はもはや英雄などではありません。……国家を揺るがしかねない、歩く厄災にございます」
諜報長官の苦渋に満ちた報告。
大臣たちがざわめく。
「馬鹿な!たった一人で、あの『鉄の牙』を……!」
「今すぐ討伐隊を派遣すべきです!」
アリアス王はその喧騒を静かに手で制した。
その若すぎる顔には、年不相応の冷徹な光が宿っていた。
「……父上の過ちだ」
ぽつりと呟かれた言葉。
「異世界の力に安易に頼ろうとした、父上の弱さがこの国を揺るがす化け物を生み出してしまった。……ならばその尻拭いは、息子である私がせねばなるまい」
彼は玉座からゆっくりと立ち上がった。
そして大臣たちを見渡す。
「……これより”幻影”を、我が王国の最優先”討伐対象”と定める」
その凛とした声に、誰もが息を呑んだ。
「……だが騎士団は動かさぬ。これ以上、国の兵を無駄死にさせるわけにはいかぬからな」
「……長官」
「はっ」
「……”王の影”が持つ最高の”刃”を解き放て」
「目的は”幻影”の暗殺。……手段は問わぬ。……必ず息の根を止めよ」
その冷酷な命令。
それはシンという存在を、国家の正式な”敵”として認定した瞬間だった。
◇
王都から遠く離れた、とある宿場町の酒場。
そこは様々な情報と噂が、エールと共に行き交う場所だった。
「おい聞いたか?ゼノアの『鉄の牙』が、たった一人に全滅させられたって話」
若い冒険者風の男が、興奮したように仲間たちに話しかける。
「馬鹿言え。あの『鉄の牙』だぞ?Sランク傭兵団が、一人に負けるわけないだろ。作り話だ」
隣のテーブルにいた、歴戦の傭兵らしき男が、鼻で笑った。
「だがよ、本当らしいぜ。俺の知り合いの商人が、ゼノアから命からがら逃げてきてよ。街中が大騒ぎになってるって言ってた」
「なんでも相手は”幻影”って呼ばれてるらしい。魔法の詠唱もなく、雷みたいな音と共に、鉄の鎧に穴を開けちまうんだと」
「雷みたいな音……?聞いたことねぇな。どんな魔法だ?」
傭兵が、訝しげに眉をひそめる。
その会話に、カウンターで酒を飲んでいた、初老の男が、ぽつりと口を挟んだ。
「……魔法じゃ、ないのかもしれんぞ」
男は、かつてドワーフの国で、鍛冶師をしていたという老人だった。
「ワシは、聞いたことがある。遥か昔、神々の時代には、火薬という粉を使って、鉄の礫を飛ばす、”筒”があったと……」
「その威力は、どんな魔法障壁も、鎧も、紙のように貫いたという……」
酒場が、しん、と静まり返る。
誰もが、老人の、おとぎ話のような言葉に、耳を傾けていた。
「まさか……。そんな、伝説の兵器が……」
「分からん。だが、もし、その”幻影”とやらが、それを使っているのだとしたら……」
「『鉄の牙』の壊滅も、ありえん話じゃ、ないのかもしれんな」
再び、酒場が、ざわめき始める。
恐怖、畏敬、そして、ほんの少しの、興奮。
シンという存在は、本人のあずかり知らぬところで、既に、生ける伝説と化し始めていた。
そして、その伝説を追う、王国の影が、静かに、動き出そうとしていた。
幻影……その名が、大陸全土を震わせていくのは、まだ少し先のことだった




