第4話「裏路地の煙」
日が落ち、街の喧騒が遠のいていく。
俺は安宿を探すため、人通りの少ない裏路地を選んで歩いていた。
石畳の道はところどころが欠け、湿った土の匂いが鼻をつく。
等間隔に置かれた魔力灯の頼りない光が、俺の影を長く引き伸ばしていた。
その時だった。
《警告。前方50メートル、路地裏にて不自然な動きの群体反応を検出》
ティアの冷静な声が、脳内に直接響く。
思考と一体化したその声は、もはや俺の感覚の一部だ。
「……不自然な動き?」
俺は足を止め、壁の影に身を隠しながら問い返す。
《はい。調査対象、人間と思われる生体反応4、非生体反応1。行動パターンが、誘拐・拉致のそれに酷似しています》
視界の隅に、路地の向こう側の映像がワイヤーフレームで表示される。
俺の肉眼では捉えきれない、壁の向こうの光景。
大柄な男三人が、一人の少女らしき人物を無理やり袋のようなものに押し込めている。
非生体反応1、というのはその袋のことか。
(面倒事はごめんだ)
ギルドで聞いた、この街の腐敗。その一端が、今まさに目の前で起きている。
関わる義理はない。俺の目的は、情報と素材の収集。それだけだ。
そう思う一方で、俺の足は自然とそちらへ向いていた。
合理的ではない。
だが、軍人としての習性が、目の前の「脅威」を見過ごすことを許さなかった。
放置すれば、いずれ何らかの形で騒ぎになる。
その騒ぎが、俺の行動の妨げになる可能性はゼロではない。
脅威は、発見次第、速やかに排除する。
それが、俺の身体に染みついた原則だった。
「……調べるだけだ。今はな」
誰に言うでもなく呟き、俺は音もなく闇に溶け込む。
夕闇に染まるリグランの街で、新たな硝煙の匂いが、すぐそこまで迫っていた。
◇
俺は路地の角に身を寄せ、中の様子をうかがう。
男たちの下卑た笑い声と、袋の中から聞こえる、くぐもった抵抗の声。
「へへ、こいつで大儲けだぜ」
「子爵の娘だ、高く売れるぞ」
「さっさと運ぶぞ。誰かに見られたら厄介だ」
(子爵の娘)
ギルドで聞いた、行方不明の領主か。
点と点が、ゆっくりと線で結ばれていく。
これは、ただのチンピラの犯行ではない。この街の根深い腐敗に繋がる事件だ。
『ティア、状況は?』
《対象4名。全員が男性。武装は短剣及び棍棒。練度は低いですが、体格から戦闘能力は一般市民を上回ると判断。被害者は少女1名、バイタルに異常はありませんが、ストレス反応を検知》
『そうか』
なら、やることは一つだ。
(……始末するか)
俺は心の中で静かに呟く。
この街で、これ以上目立つ行動は避けたい。
戦闘は、静かに、迅速に終わらせる必要がある。
『ティア。”TACTICAL-BUILD”、起動』
『M9を生成。サプレッサーもだ』
《了解。指定:M9セミオートマチックハンドガン、及び消音アタッチメント。構築を開始します》
俺が腰のポーチに手をやると、その内部で淡い光が瞬いた。
周囲の魔素を吸収し、光の粒子が銃の形を成していく。
数秒で、冷たい金属の感触が手に伝わる。
ずしりと重いM9。その銃口には、すでに黒いサプレッサーが装着されていた。
俺は銃を手に、路地裏へと足を踏み入れた。
俺の足音は、闇に吸い込まれて消える。
男たちは、背後に迫る死神の存在に、まだ気づいていなかった。
『ティア、一番手前の見張りからだ』
《了解。対象のバイタル、ロック。心臓部をマーキングします》
俺の視界に、壁に寄りかかる男の胸の中心が赤い点でハイライトされる。
銃口のブレ、呼吸、心拍数。全てがティアによって最適化されていく。
無駄な動きはしない。
ただ、腕を上げ、マーカーに照準を合わせ、引き金を引く。
プスッ。
空気の抜けるような、ごく小さな音。
見張りの男は、何が起こったのか理解できないまま、声もなくその場に崩れ落ちた。
「おい、どうした?」
仲間の一人が、物音に気づいて振り返る。
それが、奴の最後の言葉になった。
《次対象、捕捉。眉間を推奨》
プスッ。
二人目の眉間に、小さな穴が開く。
奴は驚愕の表情を浮かべたまま、仰向けに倒れた。
「な……!?」
残りの二人も、ようやく異常に気づいた。
《残敵2名、同時排除を実行します。射線予測……完了》
俺の視界に、二条の光線が表示される。
一人は喉、もう一人は心臓。俺が引き金を二度引くことで、二つの命を同時に刈り取るための最適ルートだ。
彼らが武器に手をかけるよりも早く、俺の銃口は火を噴いていた。
プスッ。プスッ。
立て続けに二発。
表示された射線通りに、弾丸は寸分の狂いもなく二人の急所を貫いた。
路地裏は、再び静寂に包まれた。
違うのは、転がる死体の数と、立ち上る硝煙の匂いだけ。
戦闘開始から、わずか十数秒。
まさに「作業」だった。
《脅威対象4名、全て無力化を確認。作戦完了です》
ティアの冷静な報告を聞きながら、俺はM9をポーチに戻す。
そして、男たちが運んでいた大きな麻袋へと近づいた。
中から、微かな身じろぎが感じられる。
俺は躊躇なく、腰のコンバットナイフで袋を切り裂いた。
中から転がり出てきたのは、手足を縛られ、猿ぐつわをされた一人の少女だった。
年の頃は、十五、六といったところか。
上質な絹のドレスは汚れ、手入れの行き届いた亜麻色の髪も乱れている。
だが、その瞳には、恐怖だけではない、強い意志の光が宿っていた。
俺は少女の猿ぐつわを乱暴に引きちぎる。
「……っ、はぁ、はぁ……!」
少女は激しく咳き込みながら、俺と、周囲に転がる男たちの死体を見て、息を呑んだ。
その瞳に、新たな恐怖の色が浮かぶ。
「……誰だ、お前は」
俺は感情を排した声で、低く問いかけた。
助けを求めるような甘えは、一切許さない。
必要なのは情報だ。
「……あ、あなたは……?」
少女は震える声で聞き返してきた。
俺は答えず、ただ冷たい視線で彼女を見つめる。
その無言の圧力に、少女は観念したように口を開いた。
「……わ、私は、エリーナ……。エリーナ・フォン・リグラン……この街の領主、アルフォンスの一人娘です」
やはり、子爵の娘か。
「なぜ攫われた?」
「……父が、一月前から行方不明なのです。
私は、父の失踪に、この街の”ジューミ商会”が関わっていると睨んで……独自に調べていました。
今夜、その商会の幹部が、人身売買の取引をするという情報を掴んで……証拠を押さえようとしたところを、見つかって……」
なるほどな。
ギルドで聞いた、魔物の異常発生、貴族の失踪、奴隷市場の拡大。
そして、ジューミ商会。
この少女、エリーナの証言で、全ての情報が繋がった。
この街の腐敗の根源は、ジューミ商会と、その裏にいる何者か。
俺の視界の隅で、ティアが情報を整理し、相関図を構築していく。
《情報ソース、確保。対象”エリーナ”は、本件における最重要情報源であると判断します》
ティアの分析は、俺の考えと一致していた。
エリーナは、俺がただの殺人鬼ではないと判断したのか、必死の形相でこちらに膝を摺り寄せた。
「お願いします! あなたは、一体何者なのですか!?
ですが、これほどの力をお持ちなら……どうか、父を……父を助けてください!」
彼女はドレスの裾を握りしめ、懇願するように俺を見上げる。
その瞳は涙で潤んでいた。
だが、俺の心は一切揺らがない。
同情も、正義感も、俺の中には存在しない。
あるのは、ただ、目的達成のための合理的な判断だけだ。
俺はエリーナを見下ろし、冷たく言い放った。
「断る」
「……え?」
エリーナの顔から、血の気が引いていく。
「俺に、お前の父親を助ける義理はない。俺は俺の目的のために行動するだけだ」
「そん、な……」
絶望に染まる彼女の顔を、俺は無感動に見つめる。
だが、俺は言葉を続けた。
「……だが、お前には利用価値がある」
「利用……価値……?」
「そうだ。お前が持つ情報は、俺の目的にとって有益だ。
”ジューミ商会”、行方不明の父親、この街の裏社会……その全てが、俺の知りたいことと繋がっている」
俺はエリーナの前にしゃがみ込み、彼女の瞳をまっすぐに見据える。
「だから、取引だ。
俺はお前の安全を確保してやる。その代わり、お前の持つ情報をすべて提供しろ。
俺はお前の父親を探すために動くわけじゃない。
俺がこの街の腐敗の根を断つ過程で、運が良ければ、お前の父親が見つかるかもしれん。それだけのことだ」
「……」
「どうする? このまま一人で野垂れ死ぬか、それとも俺を利用するか。選べ」
エリーナは、俺の言葉に唇を噛み締めていた。
恐怖、屈辱、そして、わずかな希望。
様々な感情が、彼女の顔の上で渦巻いている。
数秒の沈黙の後、彼女は、震える声で、しかしはっきりと答えた。
「……わかり、ました。あなたの……取引を、受けます」
「利口な判断だ」
俺は立ち上がり、エリーナに手を差し伸べる。
彼女は、おそるおそる、その手を取った。
「行くぞ。まずは、お前が安全に隠れられる場所を探す」
俺は彼女を立たせると、死体が転がる路地裏を後にした。
こうして、俺と子爵の娘の、奇妙で、一方的な協力関係が始まった。
俺の目的は変わらない。
ただ、その達成のための最適な”ツール”が、一つ手に入った。
それだけのことだ。