第34話「温もりの理由」
俺の左手にかすかな温もりを感じながら、俺たちは再び歩き始めた。
ルナはもう俺の後ろを歩いてはいない。俺の半歩後ろ、繋いだ手が離れないギリギリの位置で必死に俺の歩幅についてきていた。時折バランスを崩して俺の腕に寄りかかるが、そのたびにはっとしたように身を離す。その繰り返しだった。
会話はまだほとんどない。
だが沈黙の種類は昨日までとは明らかに違っていた。そこにあったのは警戒や断絶ではなく、ぎこちないが確かな繋がりだった。
『……ティア。ルートはこれで合っているのか』
《はい。……ですがシン。この先、道はさらに険しくなります。……彼女の体力が持つかどうか……》
ティアの懸念はもっともだった。
繋いだ手から伝わってくるルナの体は小刻みに震えている。体力も体温も限界に近いのだろう。
その日の夕暮れ。
俺たちは風を避けられる小さな岩棚を見つけ、そこで野営することにした。
俺が手早く焚き火の準備をしていると、ルナがおずおずと俺の服の袖を引いた。
「……あの……」
俺が振り返ると、彼女は何か言いたげに唇を震わせている。
「……お腹……すいた……」
消え入りそうな小さな声。
だがそれは彼女が初めて自らの意思で、俺に何かを求めた瞬間だった。
「……ああ。今、準備する」
俺はぶっきらぼうにそう答えると、昼間に仕留めておいた山鳥を取り出した。
手際よく羽を毟り内臓を取り出す。そして枝に突き刺し、焚き火の火で炙り始めた。
肉の焼ける香ばしい匂いが辺りに立ち込める。
ルナはその光景をただ黙って見ていた。
その金色の瞳が焚き火の炎を映して、ゆらゆらと揺れている。
やがて肉が焼きあがると、俺は一番火の通った部分をナイフで切り取った。そして木の葉の上に乗せて彼女に差し出す。
「……熱いから気をつけろ」
「……うん」
ルナは小さく頷くと、熱い肉をふーふーと冷ましながらゆっくりと食べ始めた。
その姿はまるで初めて餌を与えられた雛鳥のようだった。
食事が終わると、俺は見張りのために焚き火のそばに座った。
ルナはその俺の背中にもたれかかるようにして、小さな寝息を立て始める。
無防備なその寝顔。
俺はため息をつくと、自分が羽織っていたコンバットジャケットを脱いだ。そして彼女のか細い体にそっとかけてやった。
静かな夜だった。
満天の星がまるで宝石を撒き散らしたかのように輝いている。
俺はHK416を膝の上に置き、遠くで聞こえる夜行性の獣の声に耳を澄ませていた。
その時だった。
《……シン》
ティアが静かに呼びかける。
『……なんだ?』
《あなたの心拍数及びストレスレベルが、この数時間極めて安定した数値を維持しています》
『……それがどうした』
《彼女の存在があなたの精神状態に、何らかのポジティブな影響を与えている可能性があります》
俺は何も答えなかった。
ただ背中から伝わってくる小さな温もりを感じていた。
戦場では決して感じることのなかった温もり。
それは俺の凍てついた心を、少しずつ溶かしていくような不思議な感覚だった。
だがそんな穏やかな時間は長くは続かなかった。
夜半過ぎ。
それまで穏やかだった風が急にその向きを変えた。
ヒュウと甲高い風切り音。気温が急速に下がっていくのが肌で感じられた。
『……ティア。天候はどうなっている』
《……!異常です!この地域の季節、気圧配置ではありえない規模の寒気が急速に南下しています!》
ティアの警告と同時に。
空から白いものが舞い落ちてきた。
雪だ。
最初は小さな綿のような雪だった。だがそれはあっという間に吹雪へと変わっていった。
「……!」
俺は眠っているルナを叩き起こした。
「おい、起きろ!嵐だ!」
ルナは何が起こったのか分からないという顔で、呆然と荒れ狂う吹雪を見つめている。
焚き火の火もあっという間に雪に消されてしまった。
暗闇と猛烈な風雪。体感温度が氷点下へと突き刺さる。
(このままでは凍え死ぬ)
『ティア!近くに洞窟か、風を避けられる場所は!?』
《探しています!……ありました!ここから北へ200メートル!崖の中腹に小さな洞窟が!》
俺はルナの手を強く引いた。
「行くぞ!」
俺たちは猛吹雪の中を突き進んだ。
視界はほとんどゼロ。一寸先は闇。
ただティアが視界に表示するナビゲーションだけを頼りに進む。
だがルナの足取りはあまりにもおぼつかなかった。
体温を奪われ体力は既に限界を超えている。
「……はぁ……はぁ……」
ついに彼女の足がもつれ、雪の中に倒れ込んだ。
「……もう……むり……」
か細い声。
その唇は紫色に変色している。
『……しっかりしろ!』
俺は彼女を背負い上げた。
驚くほど軽い。だがその体は氷のように冷たくなっていた。
まずい。このままでは低体温症で死ぬ。
俺は最後の力を振り絞り雪の中を駆け抜けた。
そしてついにティアが示した洞窟の入り口を発見した。
俺は転がり込むように洞窟の中へと入った。
風雪が嘘のように止む。
だが安心したのも束の間だった。
俺は背負っていたルナをゆっくりと地面に下ろす。
彼女の体はぐったりとして意識が朦朧としていた。
「……さむ……い……」
震える声。
このままでは夜明けまで持たない。
俺はポーチから携帯用の化学カイロを数個取り出した。
そしてそれをルナの服の中に押し込む。
さらに自分のコンバットジャケットで彼女の体をきつく包み込んだ。
そして俺は彼女の冷たい体を背後から抱きしめた。
自らの体温で彼女を温めるために。
兵士として戦場で何度も仲間とそうやって夜を明かした。
だが今俺が抱きしめているのは屈強な兵士ではない。
いつ壊れてもおかしくないほどか細い少女。
俺の腕の中でルナの震えが少しだけ収まった気がした。
俺は荒れ狂う洞窟の外を見つめた。
武器も戦術も通用しない絶対的な自然の猛威。
それは俺がこの世界に来て初めて直面する本当の”脅威”だったのかもしれない。
俺はただ祈るように少女を抱きしめ続けた。
長い長い夜が始まろうとしていた。




