第32話「銀色の名前」
「……だれ……?」
か細い、掠れた声が静かな洞窟に響いた。
焚き火の光に照らされて、銀髪の少女が怯えたように身を固くしている。その金色の瞳は、目の前にいる俺という存在を理解できずに揺れていた。記憶も感情も、全てが抜け落ちてしまったかのような空っぽの瞳だ。
(……完全に、記憶が飛んでいるのか)
俺は内心で舌打ちしながら、できるだけ刺激しないようにゆっくりと両手を上げて、敵意がないことを示した。
「俺か?俺は、シンだ」
俺がそう名乗っても、少女は俺の言葉に反応しない。ただ小さな獣のように、洞窟の壁際まで後ずさり、警戒を解こうとはしなかった。その瞳は、俺が少しでも動けば、すぐにでも逃げ出してしまいそうなほど、恐怖に満ちている。
『ティア。状況は?』
《バイタルは、安定しています。ですが脳波に、極度の混乱が見られます。……おそらくは記憶喪失。施設での長期間の幽閉と、覚醒時の精神的ショックによる自己防衛反応かと思われます》
ティアの声はまだ少し硬いが、いつもの冷静さを取り戻していた。
『……つまり自分の名前も、何もかも覚えていない、と』
《その可能性が、極めて高いでしょう。シン、彼女は現在、生まれたての雛鳥と同じ状態です。最初に見たあなたを、世界の全てだと認識する可能性も、その逆も、ありえます》
厄介なことになった。
俺は肩をすくめ、腰のポーチから干し肉と水筒を取り出した。そしてそれを、少女の前にゆっくりと滑らせるように置く。
「食え。腹が減ってるんだろ」
少女は俺の行動を訝しげに見ていたが、やがて空腹には勝てなかったのか、恐る恐る干し肉へと手を伸ばした。そして野生の動物のように、匂いを嗅ぎ、小さく、何度もかじりつく。その姿は、痛々しいほどにか細かった。
しばらくの間、奇妙な沈黙が続いた。
パチパチと、焚き火が爆ぜる音だけがやけに大きく聞こえる。
(これから、どうするか)
俺は、この先のことを考えていた。
この少女を、どうするか。
このままここに置いていくわけにはいかない。あの白い仮面の連中が、いつまた現れるか分からないからだ。
奴らは俺を「断片を持つ者」と呼んだ。奴らの目的は俺自身ではなく、俺の中のティアだったはずだ。そしてこの少女も、ティアと酷似したエネルギーを持つ、もう一つの「断片」。
ならば奴らの目的は、今やこの無防備な少女にも向いている。いや、むしろ物理的な存在であるこいつの方が、奴らにとっては明確な標的だろう。
かといって、この何も知らない赤子同然の少女を連れて歩くのは、戦場に赤子を連れていくようなものだ。足手まとい、という言葉ですら生ぬるい。
俺が思考に沈んでいると、少女がぽつりと呟いた。
「……わたしは……?」
自分は、誰なのか。
その根源的な問い。俺は、答えることができなかった。
『……名前は、ないのか』
少女は小さく、首を横に振った。
その銀色の髪が、焚き火の光を反射してきらきらと輝く。まるで、夜空に浮かぶ、月光をそのまま紡いだかのようだ。
その時、俺の脳裏にふと一つの言葉が浮かんだ。
「……ルナ」
俺は、無意識にそう呟いていた。
「……るな……?」
少女が、鸚鵡返しにその音を繰り返す。
「ああ。お前の名前だ。今日から、お前はルナだ」
俺がそう言うと、少女は不思議そうな顔で自分の胸に手を当てた。
「……わたし……が……るな……」
初めて与えられた、自分の名前。
その響きを確かめるように、彼女は何度も何度も呟いていた。
そしてその金色の瞳に、ほんのわずかだが光が宿った気がした。空っぽだった器に、最初の水滴が、ぽつりと落ちたかのように。
その夜は、それで終わった。
俺たちは言葉を交わすことなく、ただ焚き火を挟んで座っていた。
ルナと名付けた少女は、やがて疲れ果てたのか壁に寄りかかったまま眠りに落ちていた。その寝顔は、ひどく幼く見えた。
夜が明け、空が白み始める頃。
俺は、旅立ちの準備を始めた。
『ティア。今後の方針を決めろ』
《はい。まずこの”竜の顎”山脈からの脱出が、最優先です。このまま山中に留まるのは、危険すぎます》
ティアの言う通りだ。
食料も水も、残り少ない。
それに、いつまたこの山の厄介な住人たちが現れるか分からない。
《地図によれば、この山脈を東に抜ければ小さな村があるようです。まずはそこを目指し、体勢を立て直すべきかと》
『分かった。……問題は、こいつだ』
俺は、眠っているルナに視線を落とす。
《……彼女を、連れていくのですね。戦術的には、極めて非合理的です。あなたの生存確率を、著しく低下させます》
『他に、選択肢があるか?』
俺の問いに、ティアはしばらく沈黙していた。
そして、静かに答える。
《……ありません。……彼女を保護することを、現時点での、最優先事項とします》
ティアは、何も言わなかったが、それが答えだった。
俺は焚き火の火を消し、ルナのか細い肩を軽く揺さぶった。
「おい、起きろ。行くぞ」
ルナは、んと小さく身じろぎすると、ゆっくりと金色の瞳を開いた。
そして俺の顔を見ると、びくりと体を震わせる。まだ、俺への警戒心は解けていないらしい。
だが、彼女は何も言わず、黙って立ち上がった。
そして俺の数歩後ろを、おぼつかない足取りでついてくる。
俺たちは、洞窟を出た。
朝の冷たく、澄んだ空気が肺を満たす。
眼下には雲海が広がり、その向こうにはどこまでも続く山々の連なり。絶景だった。
だが、その絶景を楽しむ余裕はない。
この美しい景色は、同時に俺たちの行く手を阻む巨大な壁でもあるのだから。
俺は東へと続く、険しい岩道を見据えた。
新たな、そしてこれまで以上に厄介な荷物を背負って。
俺の長い旅は、また新たな局面を迎えようとしていた。




