第30話「虚無の揺り籠」
重い金属の扉が、完全に開かれた。
警告音が鳴り響く中、俺はP90を構え、闇の向こう側へと、慎重に足を踏み入れた。
通路とは違う、広大な空間の気配。
そして、消毒液の匂いに混じる、甘い腐臭が、さらに濃くなった。
パッ……。
俺の侵入を感知したのか、部屋の照明が、静かに灯る。
そこは、実験室ではなかった。
ドーム状の、巨大な観測室。
壁一面が、分厚い強化ガラスで覆われており、その向こう側には、さらに巨大な、円筒形の空間が広がっていた。
まるで、巨大な水槽を、内側から見ているかのようだ。
そして、その円筒形の空間の中央。
無数の、青白いケーブルに繋がれ、一体の”何か”が、静かに浮かんでいた。
『……なんだ……あれは……』
俺は、言葉を失った。
ストーカーのような、異形の怪物ではない。
そこにいたのは、一人の、少女だった。
年の頃は、十代半ばだろうか。
腰まで届く、長い、銀色の髪。
肌は、血の気を感じさせないほどに、白い。
彼女は、まるで眠っているかのように、目を閉じ、その身を、緑色の、半透明な液体の中に、横たえていた。
その姿は、痛々しいほどに、美しく、そして、あまりにも、非現実的だった。
ここは、収容室などではない。
揺り籠だ。
この少女を、永い眠りにつかせておくための、虚無の揺り籠。
《……あ……あ……》
その時、俺の頭の中で、ティアが、悲鳴のような、短い電子音を発した。
これまで、どんな窮地に陥っても、決して失われることのなかった、彼女の冷静さが、完全に、崩壊している。
『ティア!?どうした!』
《……エネルギー、パターン……。……同じ……。……私と、同じ……!》
ティアの声が、ノイズ混じりに、途切れる。
視界の隅の、戦術モニターが、激しく、明滅を繰り返していた。
彼女の、システムそのものが、目の前の光景によって、致命的なエラーを起こしているのだ。
やはり、そうか。
この少女こそが、「被検体No.7」。
そして、ティアと、同じ、存在……。
俺が、強化ガラスに、一歩、近づいた、その時だった。
それまで、静かに眠っていた少女の、銀色の睫毛が、ぴくり、と震えた。
そして、ゆっくりと、その瞼が、開かれていく。
現れた瞳は、この世のどんな宝石よりも、深く、そして、虚ろな、金色だった。
その瞳が、真っ直ぐに、俺を、捉える。
いや、違う。
俺ではない。
俺の、内側にいる、”何か”を。
次の瞬間。
少女の、か細い唇が、動いた。
【……フラグメント……発見……】
その声は、少女のものではなかった。
幾重にも重なった、無機質な、電子音声。
それは、この施設全体が、彼女の口を通して、喋っているかのようだった。
【……異物……付着……。……排除、します……】
ゴオオオオオッ!
凄まじい、衝撃。
俺の体が、見えない力によって、後方へと、吹き飛ばされた!
強化ガラスに、叩きつけられ、肺の中の空気が、全て、絞り出される。
「……ぐっ……はっ……!」
念動力。
魔法でも、物理攻撃でもない。
純粋な、意思の力による、破壊。
《……!シン!危険です!彼女は、私の、制御権を、奪おうと……!》
ティアの、悲鳴のような警告。
だが、もう遅い。
少女が、ゆっくりと、こちらに、右手をかざす。
俺が、手にしていた、P90が、まるで、生き物のように、俺の手から、離れ、宙を舞った。
そして、その銃口が、正確に、俺の、眉間へと、向けられる。
【……排除……】
絶体絶命。
俺は、歯を食いしばり、地面を蹴った。
横っ飛びに、転がり、それを、回避する。
直後、俺がさっきまでいた場所の、強化ガラスを、P90から放たれた弾丸が、蜂の巣にした。
『……くそっ!自分の武器に、殺されるとはな!』
俺は、近くにあった、観測用のコンソールの影に、身を隠す。
P90は、なおも、俺を追って、弾丸を、乱射し続けていた。
このままでは、嬲り殺しにされる。
銃は、使えない。
ならば。
『ティア!奴の、あの念動力を、無効化できるものは!?』
《……解析、不能!……ですが、彼女の力は、周囲の、空間エネルギーに、直接、干渉しています!……同じ、エネルギーで、相殺すれば……!》
『……つまり、EMPか!』
《……!その、可能性に、賭けます!》
『TACTICAL-BUILD!EMPグレネード!』
俺の、左手に、小さな、円筒形の、グレネードが、生成される。
俺は、コンソールの影から、それを、少女のいる、円筒形の空間へと、全力で、投げ込んだ!
グレネードは、強化ガラスの、弾痕の空いた穴を、すり抜け、緑色の液体の中へと、着水する。
そして。
パシュッ!
閃光と、衝撃波。
EMPが、炸裂し、強力な、電磁パルスが、施設全体を、駆け巡った。
室内の照明が、激しく、明滅し、火花を散らす。
P90の、乱射が、止んだ。
少女の、念動力が、一時的に、無効化されたのだ。
『……よし!』
だが、安堵したのも、束の間だった。
円筒形の、 containment pod から、ミシミシ、と、嫌な音が、聞こえ始めた。
EMPの衝撃で、装置そのものに、ダメージが入ったらしい。
強化ガラスに、蜘蛛の巣のような、亀裂が、走り始める。
そして。
パリンッ!!
ガラスが、砕け散る、甲高い音。
緑色の液体が、津波のように、観測室へと、流れ込んできた。
そして、その、奔流の中から、銀色の髪の少女が、静かに、姿を現した。
無数のケーブルは、引きちぎられ、彼女は、初めて、自らの足で、大地に、立った。
その、虚ろな、金色の瞳が、再び、俺を、捉える。
【……エラー……。……エラー……】
【……マスターユニット、損傷……】
【……プランBへ、移行……】
少女の、体が、黒い、霧のようなものに、包まれ始めた。
そして、その姿が、徐々に、変貌していく。
背中からは、ストーカーと同じ、カマキリの鎌のような、刃が、生え。
指先は、鋭い、鉤爪へと、変わっていく。
人間だった、少女の姿は、消え、そこにいたのは、異形の、戦闘生命体。
「ギ……ィ……ィ……」
喉の奥から、獣のような、呻き声が、漏れる。
だが、その顔だけは、あの、白い能面のままだった。
『……化け物が』
俺は、P90を、再び、構えた。
だが、ティアが、それを、制止する。
《……待って、シン!……彼女、は……!》
その時、少女の、白い能面に、ピシリ、と、亀裂が、入った。
そして、仮面が、剥がれ落ちる。
その下に、現れたのは、苦痛に、歪んだ、涙を流す、少女の、顔だった。
「……助け……て……」
か細い、声。
それは、彼女自身の、魂の、叫び。
「……”お母さん”が……。……私を、喰べ……る……」
お母さん?
プロジェクト・マザー。
まさか。
次の瞬間、少女の体は、完全に、暴走した。
金色の瞳は、憎悪の、赤い光を、宿し。
その口からは、人間のものではない、甲高い、咆哮が、迸った。
「キシャアアアアアアアアアアアッ!」
異形の怪物が、俺に向かって、突進してくる。
その速さは、ストーカーの、比ではない。
もはや、目で、追うことさえ、できない。
だが、俺は、動かなかった。
ただ、静かに、P90の銃口を、下げる。
そして、代わりに、腰のベルトから、”それ”を、抜き放った。
ライラが、俺に、託してくれた、お守り。
彼女が、最初に、打ち上げた、あの、美しい、ナイフを。
俺は、目を閉じた。
そして、ただ、感じる。
風の、流れ。
空気の、振動。
そして、死の、匂い。
怪物の、鉤爪が、俺の、心臓を、抉り出そうと、迫る、その、刹那。
俺は、目を開いた。
そして、その、懐へと、踏み込む。
すれ違い様、俺の、右腕が、閃いた。
ナイフが、怪物の、胸の中心、ただ一点へと、吸い込まれていく。
そこは、かつて、少女の、心臓があった、場所。
怪物の、動きが、ぴたり、と止まった。
その、赤い瞳から、憎悪の光が、消えていく。
そして、元の、虚ろな、金色の瞳へと、戻っていく。
少女の、体が、黒い霧を失い、元の、か細い、姿へと、戻っていく。
俺の、腕の中で、彼女は、ゆっくりと、崩れ落ちた。
「……あり……がと……」
最後に、そう、呟いたのか。
少女は、そのまま、意識を、失った。
俺は、気を失った少女を、抱きかかえる。
その体は、驚くほど、軽かった。
《……シン……》
ティアの、声が、震えている。
『……分かっている。……こいつを、連れて、ここを出るぞ』
俺が、そう、決意した、その時。
施設全体が、激しく、揺れ始めた。
天井から、破片が、降り注ぎ、壁が、崩れ落ちていく。
《……警告!……警告!》
《被検体No.7の、バイタル、停止!……当施設は、これより、自爆シークエンスへ、移行します!》
《……施設、完全崩壊まで、あと、10分!》
無機質な、アナウンスが、響き渡る。
俺は、舌打ちをすると、少女を、肩に担ぎ、出口へと、駆け出した。
崩壊する、古代遺跡。
謎の、少女。
そして、ティアの、過去。
全ての、歯車が、今、大きく、動き始めた。
俺は、ただ、生き残るために、走り続ける。
この、絶望の、揺り籠から、脱出するために。




