第18話「絶望の報告」
商業都市ゼノアの夜は、いつもならば欲望の熱気でむせ返っている。
しかし、その夜は違った。
街を支配していたのは、熱気ではなく、氷のように冷たい緊張感だった。
Sランク傭兵団『鉄の牙』が、たった一人の敵を捕らえるために仕掛けた大規模な作戦。
その結末を、まだ誰も知らない。
ゼノアの富を牛耳る組織の一つ、アークライト商会。
その豪華絢爛な本部の一室で、会頭であるバルタザールは、上機嫌でワイングラスを傾けていた。
「ふん、ヴォルガの奴め、まんまと我々の挑発に乗ったか」
小太りで、柔和な笑顔を常に浮かべている男。
だが、その目の奥には、他人を値踏みするような、商人特有の狡猾な光が宿っている。
彼の元には、数日前にギルドの秘密工房から盗み出されたという、最高純度の魔導金属インゴットが、数本届けられていた。
もちろん、彼が盗ませたわけではない。
正体不明の何者かが、ギルドから盗み出したものを、彼の部下が横取りしたのだ。
「これで、我々も”あれ”の製造に着手できる。ヴォルガの奴が、苦虫を噛み潰したような顔で、市場から我々の新製品を買い漁る姿が目に浮かぶわ」
ケタケタと下品な笑い声を上げるバルタザール。
彼は、今回の事件を、鍛冶師ギルドと敵対する自分たちへの、神の恵みだと信じて疑わなかった。
ギルドが雇ったという『鉄の牙』も、所詮は金で動く犬。犯人を見つけ出す前に、適当なところで手打ちにするだろう、と高を括っていた。
その、甘い観測が、木っ端微塵に砕け散ったのは、それから数時間後のことだった。
◇
「か、会頭!た、大変です!」
息を切らし、顔面蒼白になった部下が、マナーも忘れて部屋に転がり込んでくる。
その尋常ではない様子に、バルタザールは不機嫌に眉をひそめた。
「騒々しいぞ。何事だ」
「『鉄の牙』が……!『鉄の牙』が、全滅したとの報告が!」
「……なんだと?」
バルタザールの動きが、止まった。
ワイングラスを持つ手が、ぴくりと震える。
「……馬鹿なことを言うな。あの『鉄の牙』だぞ?大陸最強の傭兵団が、全滅など……。ヴォルガの奴が、我々を欺くために流した、偽情報に決まっている」
「そ、それが……!現場から、命からがら逃げ帰ってきたギルドの私兵が、複数名……皆、同じことを……」
部下の言葉に、バルタザールの額に、じわりと汗が滲む。
彼は、震える手でワイングラスを置くと、低い声で命じた。
「……詳しく、話せ。何があった」
部下が語った内容は、バルタザールの商人としての、現実的な思考回路を、根本から破壊するものだった。
待ち伏せ部隊、全滅。
被害、傭兵15名、ギルド私兵20名。
敵、正体不明、ただ一人。
交戦時間、わずか数分。
「……馬鹿な。ありえん。たった一人に、あの鉄壁の布陣が……。相手は、一人の人間ではない。軍隊、いや、それ以上の”何か”だ」
「……現場は、凄惨な状況であったと。生き残った者の話では、相手は、未知の武器を使用していた、と」
「未知の武器?」
「はい。詠唱もなしに、轟音と共に、鉄の礫を撒き散らす、杖のようなもの……。魔法障壁は意味をなさず、鋼の鎧は、紙のように引き裂かれた、と……」
鉄の礫を撒き散らす杖。
その言葉に、バルタザールの脳裏に、一つの光景がフラッシュバックした。
数日前、彼の部下が、ギルドの工房からインゴットを”回収”した際、現場に落ちていたという、奇妙な金属の筒。
薬莢だ。
鑑定士に見せても、誰もその正体を解明できなかった、未知の遺物。
まさか。
あの、小さな筒が、これほどの破壊を生み出したというのか。
「……それで、犯人は?『鉄の牙』の隊長、グレンデルはどうした!?」
「……それが……。待ち伏せ部隊が壊滅した後、グレンデル隊長は、即座に退却を指示。しかし……」
部下は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……退却中の本隊が、何者かに追撃され……グレンデル隊長を含め、全員が……」
「……遺体は、見つかっていません。ただ、現場には、おびただしい量の血痕と、隊長の物と思われる、砕け散った魔剣の破片だけが……」
バルタザールの全身から、血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
恐怖が、背筋を駆け上り、心臓を氷の指で鷲掴みにする。
これは、違う。
自分が考えていたような、甘いゲームではない。
商業的なライバルが雇った、暗殺者?
馬鹿な。
そんな生易しいものではない。
あれは、災害だ。
人の形をした、歩く厄災。
軍隊などではない。それ以上の、何か。
ルール無用の、絶対的な暴力。
「……集めろ」
バルタザールが、か細い声で呟く。
「……今すぐ、全ての戦力を、この商会本部へ集結させろ。一人残らずだ。全ての取引は中止!街の支部も全て放棄しろ!」
「か、会頭!?それでは、我々の商圏が……!」
「黙れ!命あっての物種だ!」
バルタザールが、絶叫する。
その顔は、もはや狡猾な商人のものではなく、死の淵を覗き込み、恐怖に怯える、ただの矮小な男の顔だった。
「籠城する!何が何でも、この本部に、籠城するのだ!奴が、この街から去るまで、一歩も外へは出ん!」
その日を境に、アークライト商会は、完全に沈黙した。
ゼノアの経済を、ギルドと二分していた巨大組織が、まるで嵐に怯える小動物のように、己の巣穴に閉じこもったのだ。
その異常事態は、街全体に、さらなる混乱と、得体の知れない恐怖を広めていくことになった。
◇
翌日。
ライラの工房がある南西地区にも、その噂は届いていた。
「おい、聞いたかよ!『鉄の牙』が、昨夜、全滅したらしいぜ!」
「嘘だろ!?あの、Sランク傭兵団が!?」
「なんでも、たった一人にやられたって話だ。相手は、古の魔王の亡霊だとか、なんとか……」
工房の前を通り過ぎる、日雇い労働者たちの会話。
その内容を、工房の中で聞いていたライラは、金床を打つ手を止めた。
(……鉄の牙が、全滅……?)
まさか。
そんな、おとぎ話のようなことが、あるはずがない。
きっと、尾ひれがついた、ただの噂話だ。
そう、思おうとした。
だが、彼女の脳裏に、昨日の、あのフードの男の姿が蘇る。
『死ぬつもりはない。むしろ、手土産を持ってきてやるさ』
あの、絶対的な自信。
そして、彼が持つ、底知れない雰囲気。
ライラは、工房の隅に置かれた、真新しいインゴットに目をやった。
昨夜、あの男が「手土産」だと言って、無造作に置いていったものだ。
その数は、昨日よりも、遥かに多い。
そのどれもが、彼女がこれまで見たこともないほどの、輝きを放っている。
ゴクリ、とライラの喉が鳴る。
嫌な汗が、背中を伝った。
偶然だ。
きっと、偶然。
あの男が、『鉄の牙』を壊滅させた犯人だなんて、そんなこと、あるはずが……。
その時だった。
工房の扉が、ギィ、と音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、昨日と同じ、フードを目深に被った男。
シンだった。
「……よぉ。待たせたな」
彼は、いつもと変わらない、平坦な口調で言った。
その体からは、血の匂いも、硝煙の匂いもしない。
まるで、近所を散歩でもしてきたかのような、普段通りの佇まい。
だが、ライラには、もう分かっていた。
目の前にいるこの男が、街を恐怖に陥れている、”厄災”の正体なのだと。
「……あんた……。昨日の噂、本当なの……?」
震える声で、ライラが問いかける。
その問いに、シンは、わずかに肩をすくめた。
「さあな。俺は、ただの”掃除”をしただけだ」
その、あまりにも軽い返答に、ライラの全身が、粟立った。
足が、震える。
呼吸が、浅くなる。
怖い。
心の底から、この男が、怖い。
自分は、とんでもない相手と、取引をしてしまったのではないか。
これは、最高の鉄を叩けるという、またとない好機などではない。
悪魔に、魂を売る契約だったのではないか。
「……さて、約束通り、仕事をしてもらうぞ」
シンが、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
そこには、彼女が見たこともないような、複雑で、精密な図面が描かれていた。
「これを作れ。素材は、そこにあるやつで十分だろう」
その図面と、シンの顔を、ライラは交互に見つめる。
恐怖で、体が動かない。
断らなければ。
こんな、得体の知れない男とは、関わってはいけない。
そう、頭では分かっているのに。
彼女の目は、その設計図に、釘付けになっていた。
それは、どんな剣よりも、どんな鎧よりも、美しく、機能的で、そして、恐ろしい”何か”の設計図だった。
(……なんだ、これ……)
鍛冶師としての本能が、恐怖を上回る好奇心に、火をつけた。
この設計図を、この最高の素材で、形にしたら、一体どんなものが生まれるのか。
ライラは、自分が、逃れられない運命の渦に、完全に巻き込まれてしまったことを、悟った。
絶望と、そして、ほんの少しの、禁断の興奮と共に。




