第10話「次なる座標」
あれから、三日が過ぎた。
俺が”ジューミ商会”とバレリウス男爵という、この街の二大巨悪を一夜にして葬り去ってから、リグランの街は目まぐるしい変化の渦中にあった。
俺は安宿の窓から、その様子を静かに眺めている。
街の空気は、まだどこか張り詰めている。
だが、あの夜のような絶望的な腐敗の匂いは消えていた。
代わりに、新しい秩序が生まれようとする、かすかな熱気が漂っている。
通りを行き交う衛兵の数は増え、その指揮系統も刷新されたのだろう。
彼らの目から、以前のような淀みは消えていた。
解放された奴隷たちの保護。
商会関係者の残党狩り。
それらが、今も街のあちこちで進められている。
「……」
俺は窓から離れ、部屋の隅の椅子に腰を下ろす。
ベッドの上では、俺が買ってきた簡素な街娘の服を着たエリーナが、窓の外を眺めていた。
彼女の父親である子爵アルフォンスは、あの夜、他の奴隷たちと共に保護され、今は衛兵詰所で街の再建の指揮を執っているらしい。
この三日間、俺とエリーナの間に会話らしい会話はなかった。
彼女は時折、何か言いたげにこちらを見るが、俺が視線を合わせると、怯えたように目を伏せる。
俺もまた、彼女に話しかけるつもりはなかった。
俺の目的は、すでに達成されている。
彼女はもはや、俺にとっての”ツール”としての役割を終えつつあった。
『ティア、街の状況を更新しろ』
俺は脳内でティアに指示を出す。
《了解。衛兵詰所に送付したデータパッケージは、子爵アルフォンスによって正式に受理されました》
《現在、このデータを基に、衛兵内部の粛清と、商会及び男爵派閥の残党の一斉検挙が進行中です》
《街の統治機能は、72時間以内に正常化すると予測されます》
『そうか』
(なら、潮時だな)
俺の仕事は終わった。
この街に、これ以上長居する理由はない。
コンコン、と。
部屋の扉が、控えめにノックされた。
俺が視線で促すと、エリーナがおそるおそる立ち上がり、扉を開ける。
そこに立っていたのは、数名の騎士に護衛された、子爵アルフォンスその人だった。
三日前に地下牢で見た時とは違い、身綺麗な貴族の服をまとい、顔色もいくらか良くなっている。
だが、その目には変わらぬ誠実さと、俺に対する深い畏敬の念が浮かんでいた。
「……シン殿、と、お呼びしてよろしいかな」
子爵が、緊張した面持ちで口を開く。
俺は椅子に座ったまま、無言で頷いた。
子爵は、騎士たちを廊下に待たせ、一人で部屋に入ってくる。
エリーナは、父親の無事な姿に安堵の表情を浮かべ、その隣に寄り添った。
「まずは、改めて礼を言わせてほしい。
君がいなければ、私と娘、そしてこのリグランの街がどうなっていたことか……。
この御恩は、生涯忘れることはない」
子爵は、深々と頭を下げた。
貴族が、俺のような素性の知れない男に対して見せるには、最大限の敬意だろう。
だが、俺の心は動かない。
「礼なら、あんたの娘に言え。俺は、こいつとの取引に応じただけだ」
俺の素気ない物言いに、子爵は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに得心がいったように頷いた。
「……そうか。エリーナから、話は聞いている。
君は、我々を助けるために動いたのではない、と。
だが、それでも、君が我々にとっての救世主であることに変わりはない」
子爵は姿勢を正し、本題に入った。
「シン殿。君の望みを聞かせてほしい。
金か? 地位か? あるいは、このリグランの街に、君の望むだけの土地を用意することもできる。
君が望むなら、我がリグラン家の騎士として、最高の待遇で迎える準備もある。
どうか、君の望む報酬を……」
金、地位、土地。
この世界の人間が、喉から手が出るほど欲しがるものだろう。
だが、俺にとっては、どれも無価値だ。
「いらん」
俺は、短く、そしてはっきりと断ち切った。
「……え?」
子爵とエリーナが、呆然とした顔で俺を見る。
「言ったはずだ。俺は、あんたたちを助けるために動いたわけじゃない。
俺の目的は、この街の裏社会に関する情報と、利用可能な素材の確保。
報酬は、すでに俺自身で手に入れた。
だから、あんたたちが俺に支払うものは、何もない」
「し、しかし……それでは、我々の気が収らん……!」
「あんたたちの気を収めるために、俺が動いたとでも?」
俺の冷たい視線に、子爵は言葉を失う。
俺は立ち上がり、彼らに背を向けた。
「……だが、一つだけ、貰っておくものがある」
俺は、子爵に振り返ることなく告げる。
「バレリウス男爵の屋敷。あそこの書斎にあった隠し金庫。
その中身は、俺が貰い受ける。
金や宝石には興味ない。俺が欲しいのは、そこにある”ガラクタ”だけだ」
男爵の金庫の中身。
ティアの分析によれば、そこには奴隷売買の証拠書類と共に、男爵が趣味で収集していたという、いくつかの古代文明の遺物が眠っているはずだった。
あの魔導ゴーレムの残骸と同じ材質の金属塊や、用途不明の魔石。
それこそが、俺がこの街で手に入れるべき、唯一の”報酬”だ。
「……わ、わかった。もちろんだ。
あの屋敷にあるもの全て、君の好きにしてくれて構わない……!」
子爵が、安堵したように答える。
俺は、それ以上何も言わず、部屋の扉を開けた。
「じゃあな」
◇
その日の午後、俺はバレリウス男爵の屋敷の書斎にいた。
子爵の手配により、屋敷は完全に封鎖され、俺以外の誰も立ち入ることはない。
部屋の中央には、ティアがすでに解錠した巨大な隠し金庫が、その口を開けていた。
中には、金銀財宝と共に、男爵が収集したという”ガラクタ”が、無造作に転がっている。
俺は金貨の山には目もくれず、その中から数点のアイテムを手に取った。
一つは、鈍い黒色の光を放つ、拳ほどの大きさの金属塊。
もう一つは、内部で青い光が明滅する、水晶のような魔石。
『ティア、これをスキャンしろ。詳細な分析を頼む』
《了解。対象物との物理的接触により、内部構造のスキャンを開始します》
俺が金属塊に触れると、ティアの分析データが視界に流れ込んでくる。
《……解析完了》
《この金属は、極めて高密度な魔力伝導性を持つ、未知の合金です》
《以前森で発見した古代兵器の破片、及び魔導ゴーレムの装甲材と、99.8%の組成一致を確認しました》
《これを基に、”TACTICAL-BUILD”の基礎マテリアルデータを更新します》
《兵装の耐久性、及び魔力変換効率を大幅に向上させることが可能です》
次に、俺は青い魔石を手に取る。
ひんやりとした感触。内部の光が、俺の心拍に呼応するように、わずかに強く明滅した。
《……! これは……!》
ティアの声に、初めて驚きのような色が混じった。
『どうした?』
《この魔石……単なるエネルギー貯蔵体ではありません》
《内部に、ナノマシンレベルの、自己増殖と思考機能を持つ回路が組み込まれています》
《これは、現代の我々の技術体系には存在しない……一種の、生きた演算装置です》
(生きた演算装置……?)
《はい。この素材データを統合することで、”TACTICAL-BUILD”に、新たな概念を導入できます》
ティアの声が、わずかに上擦っているように聞こえた。
それは、俺の気のせいか。
『……やれ』
《了解。新素材データの統合を開始します》
数秒の沈黙が流れる。
《金属素材の統合、完了。”TACTICAL-BUILD”のライブラリが更新されました》
《新たに、”軽量高剛性フレーム "フェザー"”の構築が可能になります》
《続けて、魔石のデータ統合を試みましたが……解析に、もう少し時間が必要です》
《内部構造が、これまでのデータにないほど複雑なためです》
《ですが、極めて有用な機能が解放されることは間違いありません》
俺の視界に、HK416の設計図が展開され、フレーム部分だけが淡く光り、新たなパーツへと換装されていくシミュレーション映像が流れる。
『そうか』
《……シン?》
『後で確認する。今はいい』
新たな力も、未知の技術も、今の俺にとっては、ただのデータだ。
それよりも、今は静かに休む方が重要だった。
この数日、まともに休息を取れていない。
俺は手に入れた金属塊と魔石をTACT-PACKに収納すると、金庫の扉を閉め、書斎を後にした。
◇
宿に戻ると、エリーナの姿はなかった。
子爵が迎えに来て、屋敷に戻ったのだろう。
それでいい。
俺たちの間の取引は、もう終わったのだから。
俺はベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちた。
夢も見ない、ただ純粋な休息。
次に目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
街の混乱は、完全に収束していた。
子爵が正式に統治者として復帰し、バレリウス男爵と”ジューミ商会”の悪事は、全て白日の下に晒されたらしい。
街の人々は、解放された奴隷たちを温かく迎え入れ、復興に向けて活気づいている。
そして、街には新たな噂が流れていた。
一夜にして巨悪を滅ぼした、フード姿の謎の”解放者”。
ある者は、彼を英雄と呼び、ある者は、神の使いだと噂した。
誰も、その正体が、薄汚い木賃宿で惰眠を貪る、俺だとは知らない。
俺は、そんな噂を鼻で笑いながら、旅の準備を整えた。
TACT-PACKの中身を確認し、生成したローブの汚れを払う。
もう、この街に用はない。
俺は宿の主人に、数日分の宿代を黙ってカウンターに置くと、誰にも告げずに、裏口からそっと街を出た。
エリーナにも、子爵にも、別れの言葉はない。
俺は、そういう人間だ。
リグランの街の門をくぐり、東へと続く街道を歩き始める。
背後で、街の喧騒が遠ざかっていく。
俺は一度も、振り返らなかった。
『ティア、次の街は?』
脳内で、相棒に問いかける。
《商業都市”ゼノア”を提案します》
《ここから東へ、徒歩でおよそ三日の距離です》
《リグランよりも遥かに大きく、様々な物資と情報が集まる、この地域最大の交易拠点です》
《活気のある街のようですよ》
ティアの声が、心なしか楽しげに聞こえた。
『そうか。なら、そこへ行こう』
俺は、地平線の先へと視線を向ける。
新たな街、新たな情報、そして、新たな素材。
俺の旅に、終わりはない。
ただ、気ままに、俺の目的のためだけに、この世界を歩き続ける。
それだけだ。
俺の背中を、異世界の太陽が、静かに照らしていた。




