第10話「君と、冬を越えよう」
春は、もうすぐそこだった。
日差しがやわらぎ、雪解け水が小川を走り出す。
それでも、朝晩の空気はまだ冷たく、冬は完全に終わってはいない。
「……戻るなら、今のうちだぞ。街道も通れるようになる」
朝の焚き火を囲みながら、エルバがぽつりと言った。
「この山を越えた先には、城もあるし、王都もある。
あんたが望めば……元の暮らしにだって戻れるだろう」
ニコルは、微笑んだ。
「望んでません」
「……あのな」
「私はもう、あの場所には帰れないんです。心が、もう戻れない」
そう言って、そっと目を伏せた。
あの冷たい宮廷。
条件で測られる婚約。
名前や地位ばかりが価値だった世界。
けれど、ここには――
焚き火のぬくもりと、朝のスープと、ぶっきらぼうな言葉がある。
なにより、私が「私のまま」でいられる、たったひとつの場所。
「……エルバさん、私、決めました」
「なんだ」
「小屋の裏、畑を作ります。あなたが狩りに行く間、私がここを守ります」
「……“守る”ってのは、簡単じゃねぇぞ」
「あなたがしてくれたことを、今度は私がしたいだけです」
言いながら、ニコルは一歩近づいた。
そして――少しだけ、勇気を出して、エルバの手に自分の手を重ねた。
「冬を越えて、生きて、こうして笑えたのは、あなたがいたからです。
だから、これからの季節も……私と、一緒に越えてくれませんか?」
春の匂いが風に乗る。
しばらくの沈黙のあと――エルバはそっと、自分のマントの裾を広げた。
「……寒くねぇか?」
「ちょっとだけ」
「来い」
マントの中に、ニコルを包み込むように引き寄せる。
手も、背中も、髪も。
全部が、ゆっくりと温かくなる。
言葉はないのに、伝わる。
――もう、この人は、どこにも行かない。
そう思えるだけで、涙がこぼれそうだった。
春の訪れとともに、小屋の前には畑ができた。
にんじん、じゃがいも、豆。
エルバは口では文句を言いながらも、土を耕し、種を蒔く手を止めなかった。
そしてある日、近隣の町から風の噂が届く。
《辺境の森に、かつて剣聖と呼ばれた男が隠れている》と――
けれど、もう彼は名乗らなかった。
かつての名も、剣も、過去に置いてきた。
代わりに選んだのは、火の絶えないこの小屋と、頑固でまっすぐな少女――いや、もう立派な“妻”だ。
ニコル・ユエは、今日も朝から畑に出ていた。
「ちょっと、そっち、掘りすぎですよ! 芋がつぶれちゃいます!」
「うるせぇ。剣じゃねぇんだから、力加減なんて知らん!」
「まったく……しょうがない人なんですから!」
笑い声が響く。
春は、いつのまにか、ちゃんとやってきていた。
そして、ふたりはこれからも――
ともに、季節を越えていくのだろう。
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