第二十七話 たまたま、ね
これまでで一番の怒声が飛んでくると思ったが、その予想は見事に外れる。
驚くことに彼女の鋭い目は鮮やかな弧を描き、喉の奥が見えるくらい口を大きく開けて笑ったのだ。
数秒間、笑い声が響き渡り、その間にオレは「ふぅー」っと息を吐き身構えていた心の力を抜く。そして青筋を立てていた彼女がなぜ笑ったのか。という疑問が浮かんでくる。
伊波さんが素直すぎて、もはやバカバカしくなったのか?
逆におざなりな対応をされて、沸点を大幅に通り過ぎたせいで情緒がおかしくなったとか。
もし後者だとしたら、この後は最悪な展開になりかねないところだ。
が、女子はお腹を押さえて身を捩りながら「腹痛い!腹痛い!」と言って呵々大笑で息苦しそうな素振りを見せ、それが落ち着いてきたころ、指で目元の笑い涙を拭ってから、
「お前、マジでサイコーだよ!」
彼女は伊波さんの右肩を叩きながら言った。
もうその面差しにはキレている破片が一ミリもなく、破顔しているようだった。
この様子だと、オレが心配しているようなことにはならなさそうだ。よかった。
それにしても伊波さんの豪気さには驚かされる。あそこで引き切らずに、あくまでも同じ立場の人間として強気な態度で応じるとは。自若が極まっている。
途中まではあたふたしていたのに、突然吹っ切れたように人が変わって手向かっていた。やっぱりこいつは変だ。
伊波さんは叩いてきた手を撫でるように左手を添えて、
「ありがとう。よければ座って。一ノ瀬さん、だよね?」
「おうよ。てか、アタシの名前知ってたんだな」
「もちろんだよ。副代表だしね」
これまでずっと立ちっぱなしだった女子を椅子に座らせるよう促す伊波さん。
今さらになってしまったが、このスタイル抜群長髪爆睡姉御の名前は『一ノ瀬』というらしい。この苗字と思われる名前から推測できる彼女のフルネームは『一ノ瀬アナト』だろう。オレでも記憶している名だ。
先ほどまでは服や髪の毛の乱れで気づかなかったが、確かによく見たら、自己紹介のときクラス中の視線を釘づけにしていた子だ。
注目されていた理由はシンプルで、そのモデルのような見目麗しさ。それでいてツンツンしている態度。この二つが主な要因だろう。
決して暗い性格というわけではなかったが、人を寄せ付けないオーラを纏っていた。
関わりたくないけど、同じ空間にはいたいという感じの人だ。
あれからしばらくはクラス内で噂になることも多かった彼女だが、その対象は次第に伊波さんや椿さんへと移っていき、気づけば完全にクラスで孤立していた。
まあさっきみたいに、露骨にビビらせるようなすげない態度を取っていれば、誰も近寄らなくなるのは仕方ないことだと思う。人付き合いが苦手か、それとも友達なんかいらねーっていうタイプか。
―――――一ノ瀬さんの考えが少し気になる。
――――――――――
一ノ瀬さんをオレの左、伊波さんの右、つまりラクの正面に招く伊波さん。
一ノ瀬さんはそれに素直に従って、上機嫌そうに歩いて近くの椅子を案内された場所に置いて座った。
座るときに前髪を触る仕草をしてしまうあたり、一ノ瀬さんも女子なんだなと思い出す。
左目に少しかかるくらいに前髪を調整して腕を組んで足を絡める。
スラっと伸びた白い雪のような足に、オレは思わず喉を鳴らす。本能で視線が吸い付けられるが、平静を装うためオレは背もたれに寄りかかって薄目をつくる。
右目の隙間から見えるのは、土下座の体勢を戻して、膝に肘を乗せて前屈みで椅子に座ったラクだ。彼は一ノ瀬さんのお腹の少し下あたりの幽闇に、今までにないくらいの眼力でガッツリ目を向けており、鼻の下はすこぶる伸びていた。
多分、一ノ瀬さんの目の前にこいつを座らせるのは間違いだったと思うが、もう後の祭り。ラクはアレに目を奪われて気づいていないだろうが、左目の隙間から見える一ノ瀬さんは、目がさっきみたいになっている。
「おい、てめぇ」
「…………」
「おい! 耳ついてんのかよ」
「…………あ、ああ。俺か。なんだ?」
「確か名前は『ラク』だったか。お前は今、何を見ている?」
「そりゃ男子の希望、夢、未来、その他諸々だ。それが場所の関係でたまたま目に入っちまってな。で、なんか用か? 今いいところだから邪魔しないでほしい」
「ほう……」
血走った目で一ノ瀬さんの黒闇に意識を集中させるラク。
その顔を、顎を引いて睨みつける一ノ瀬さん。
これからどんなことがあろうとも、伊波さんとオレは手出しも口出しもしないと心の中で誓う。
そして一ノ瀬さんは組んでいた足を解いて両足を地面に着くようにする。
それを見てラクは「ほー」っと言わんばかりの口の尖りを見せ、目を皿にした。
「遺言は?」
「俺は…………男の夢を叶えるまでは死ぬわけにはいかないのだ!!」
「そうか……」
力強く宣言したラク。
アニメの主人公的な勇ましさを感じさせるが、そんなことは問答無用。
次の瞬間、地面に足を下ろしていた一ノ瀬さんは、地面を思い切り蹴り、その反動を最大限利用して、短く強く息を吐き右足を振り上げた。
「―――――ふんっ!」
「ぶう“お”ぉ“っ」
横から見る彼女の足の軌道は美しい弧を描き、道中にあったラクの顎を蹴り上げる。
ラクは情けない声を漏らしながら、白目を剥いて椅子から体が浮くくらいその身を仰け反らせる。
そのまま背もたれに体をぶつけ、それで止まるかと思いきや勢い衰えることなく、椅子ごと体をひっくり返す。
美脚を振り上げた一ノ瀬さんは、ラクの顎を粉砕した後、右足を地面につけることなく、鮮やかな流れで左足の上に乗せる。
「わりぃ、場所の関係でたまたま顎に足が当たっちまった」




