双離怨録
貴方かわたしのどちらかに男の体があればもっと深く愛し合えたのかしら、というのは彼女の口癖だった。
愛そのものの実在は疑いもしない言い草だと冷笑せずにはいられなかった。果たして彼女──ヘディテ・ユレンベック伯爵夫人は気づいていただろうか。
月明かりに浮かぶ肢体は不惑に手が届こうという年齢を感じさせないほどに美しい。同い年であるはずの母のやせ衰え、かさついた手を思い出しては胸を締め付けられる。
「──起きていたの」
彼女の端麗な顔がこちらを向いた。ディアナはにこりともせずに夫人の縦長の瞳孔を視界の中央にとらえ、見据える。
爬虫類を思わせる細長い瞳孔のせいか、はたまた執拗な性格のせいか、いつ頃からか彼女は蛇夫人とあだ名されていた。身をかがめる彼女の意図を察し、ディアナはうつ伏せの姿勢から肩を起こす。気だるさを隠す気はなかった。
蛇を思わせる最大の特徴が──先端のふたつに割れた舌が赤く熟れた唇の間からのぞく。
目線を下げはしたものの瞼を伏せることはなく、ディアナは夫人の口づけを受け入れた。甘やかな熱と吐息、それから壊れやすい細工物にでも触れるかのようなたおやかな手つきは、王都にまで響く噂話の中の苛烈な蛇夫人の像とはまるで結びつかない。
長かった寄宿生活を終え、館に戻って数ヶ月。この期間中、噂に聞いた苛烈な言動をたびたび目してきたからこそ、夜半の彼女と昼間の彼女は別の人物ではないのかと思う時さえある。
いったい何がお気に召したのか、実の娘と同い年のディアナまで性愛の対象とするような淫婦だ。そのくせ愛人に飽きがくればみずから斬って捨てることさえあったと聞く。
その毒牙に身も心も囚われてしまう前に密命を果たさねば。
ひいては、ろくに人の出入りもない塔に囚われた母を助け出さなくては。
律動的な愛撫に抑えきれない喘ぎを小さくこぼしながら、誓いを繰り返し胸に刻みゆく。
ユレンベック伯爵家は王国南東部の豊穣な穀物地帯を代々にわたり治める名家で、何人もの高名な魔術師を輩出してきた。その大半は騎士団の一角に名を連ねる王都魔防隊の要として活躍したという。
ところが今代ばかりは才ある者に恵まれず、祖霊たちに愛想を尽かされたのではあるまいかとの評判だった。幸いにも近々の戦事は小競り合い程度だが、隣国から大規模な進軍でもあろうものなら持ちこたえられないのではとさえ言われている。
そんな中、かつて伯爵家を離れた者との縁談の数々を断り、今代が娶ったのがヘディテ夫人だった。理由には近縁の魔術師の名が挙がることもあれば、若かりし日の彼女の美貌が挙がることもあったが、公には何も語られていない。
知られているのは後継の子には恵まれなかったことと、それから後の夫婦仲の悪さだった。十六で嫁いだ夫人は二度の死産を経て男児を出産するも、この男児も片手分の年を数えることなく夭折してしまった。ユレンベック伯はこの頃には複数の妾を囲い、夫人は夫人で愛人とともに別邸で過ごすようになったという。
ユレンベック伯は妾との間にディアナを筆頭に三人の子をもうけたものの、そのいずれにも飛びぬけた才というほどのものは見受けられなかった。一方の夫人もディアナと同い年の娘を出産したが、この娘には当然ながら伯爵家の継承権はない。
娘の方もよくわきまえたもので、食事をはじめとする日常の場で夫人と同席することはほとんどなかった。おかげで事情をよく知らぬ新参の女中などはディアナを夫人の娘と勘違いすることもあるほどだった。
別宅に寄る際、ディアナは夫人と寝室をともにしていたので、必然的に朝の支度は夫人のそばで行うことになる。夫人は起床に合わせて用意された湯に浸かり、寝ぼけ眼でディアナの一挙一動を見つめていた。
通気性のよい麻のシャツは前身頃を重ねて紐で結い上げ、腰回りには太目のベルトを巻く。革製の胸当てを一度は手にとったが、食前に身に着けるのは気が早すぎるかと衣装掛けに戻す。
「あいかわらず男の子のような恰好をするのね。狩りにでも行くつもり」
「えぇ、まぁ──少しばかりの鍛錬を兼ねて。この方が動きやすいですし」
幼年期から成長期手前の寄宿生活の中、ディアナは魔術よりも剣や弓の鍛錬を好んだ。まるで平民出の少年兵のようだと揶揄されることは多々あったが、血筋に期待されるだけの才に恵まれなかったのだから仕方がないと開き直っていた。
「髪を伸ばして、少しくらい女の子らしい格好をすればいいのに。きっと可愛らしいわ」
夫人が湯から上がるのに合わせ、周囲に控えていた女中たちはほとんど音もなく駆け寄ってくる。柔らかな綿生地で滴る水分を吸い取り、白粉を薄くはたく。
手慣れた、それでいて緊張に強張った動きで夫人の身支度を整える彼女らの動きにはお構いなしに夫人は豪奢な金髪を振り回し、伸びをし、髪先を眺めては指先から飛ばす鋭い風の斬撃で傷んだ髪の先を切り飛ばしていた。夫人の呼んだ風の余波が女中の肌を傷つけ、赤い筋が走っても彼女らは声ひとつ上げない。決して慣れなどではなく、必死にこらえているだけだ。彼女らの表情をちらりと盗み見るだけでよく分かる。
夫人に近い年頃の女体を見る機会などそう多くはないが、美しい人だとは思う。双胸はたわわな果実のように実り、肌はなめらかな陶磁器のよう。鋭い眼光を放つ縦長の瞳孔にこそ違和感はつきまとうが、伯爵家の他からも数々の求婚があったという話は、あながち嘘ではないだろう。
あの美しさの一割ほども優しさに変えることができていたなら、と惜しむ声があったことをディアナはふと思い出した。
昼間着であっても夫人は濃い色のドレスを好んだ。この日は瞳の色に近い紫紺色を身にまとい、ディアナを伴って隣室へと移る。
向かいの席に座るディアナの挙動を見つめ、夫人は悩ましげなため息を吐いた。
「あなたときたら、いつも自分の都合でしかこちらには来ないけど。呼び寄せるくらいは簡単なことなのよ? 行儀作法でも刺繍でも、習わせることはいくらでもあるもの」
月に数回は訪れているというのに、都度の夜の相手だけでは物足りないとでも言うのだろうか。それともディアナが自身の都合で訪れているだけというのが気に入らないのか──ディアナは何も気づかないふりをして、緩く首を振った。
「習いごとならご自分の娘になさったらいかがです」
夫人が愛人との間にもうけた娘、アリアはディアナの二月後の生まれだ。寄宿学校にいた頃、ディアナとアリアは血のつながらない義理の姉妹としてほとんど行動をともにしていた。
「まあ、嫌よ。あんな陰気臭い娘」
夫人は眉間に皺を寄せ、露骨に嫌そうな顔をした。食卓のパンを手にとり、しなやかな指先で割ろうとして、さらに眉間の皺を深くする。
「……パンが硬い」
普段よりいくらか低い声のつぶやきが終わる前に室内には鋭い風の音が躍り、食卓から落ちた銀食器がけたたましい音を立て、そして夫人の背後では細い悲鳴が誰かの名を呼んだ。
ディアナは伏し目がちに瞬き、ため息を呑み込む。話題をそらしただけつもりが、余計な一言になってしまったようだ。
得意の風霊術で舞い上がった食卓の敷布を忌々しげに叩いて落とし、夫人は頭を振った。丁寧に結い上げられていた髪の一部がほどけ、その背に踊る。
「忘れるところだったわ。──お母様に会いにきたのだったわね」
ディアナは目を上げ、不機嫌を隠そうともしない夫人を正面から見据えた。
「……えぇ。そういう約束なので」
夫人は返事もせずにどこからか小さな鍵を取り出すと、それに長く息を吹きかけ、ディアナの目前に投げて寄こした。硬いと言ったパンを食卓に放置したまま席を立ち、寝室に引き上げてしまう。
壁際では女中が髪を振り乱し、倒れた同僚のものらしい名を呼んでいた。夫人が苛立ちまぎれに吹き荒らした風の刃に体を裂かれ、一瞬のうちに絶命したようだと遠目からでも見てとることができた。
夫人が立ち去った後、場は大きな騒ぎにはならなかった。しばらくは誰かの名前を呼んで震えていた女中も、いまや凍りついたほどの無表情で血だまりを清掃している。
母が幽閉されている部屋の鍵は手に入れた。鍵穴と形は合えど、夫人の魔術が──あの何気ない一息がなければなんの役にも立たない鍵だ。母に会うためには都度、夫人の手からこの鍵を受け取る必要がある。
ディアナの母ジュイとヘディテ夫人は同い年の従姉妹で、同郷で生まれ育っていた。母は、夫人との間には期待どおりの子が望めぬと考えたユレンベック伯が妾として強引に引き入れたうちの一人だと聞いている。
母と夫人の間にあったのだろう出来事をディアナは直接には何も知らない。少なくとも寄宿学校時代に母とやりとりした手紙の中に、夫人を貶める言葉はなかった。
変化があったとすれば、手紙のやりとりさえ禁じられた卒業後の一年の間だ。心身の成長と魔素の安定をもって寄宿学校を卒業した後、ほとんどの子弟はおのおのの生家へ戻るが、ディアナとアリアはともに王都魔防隊への随伴を命じられた。出生のわりには能力に恵まれなかった二人に対する研究という名目に基づく王命だった。
望みのものを手に入れたからと言ってすぐに席を立つ気にはなれず、ディアナは忙しなく働く女中たちを見つめていた。彼女たちの大半は買われた身と聞いている。帰る家も逃げるあてもないのだろう。
頃合いを見計らって席を立った時、ディアナは入り口の人影に気が付いた。同じ屋敷に暮らしてはいるものの、夫人の居室付近には滅多に姿を現さないアリアだった。屋内だというのに暗い色のフードを目深にかぶっている。
「うわぁ……。今回も派手に荒れたねえ」
夫人よりいくらかくすんだ滅紫色の瞳で無遠慮に周囲を見回し、内容のわりには呑気な、とぼけたような声でアリアは言った。
遺体はとうに運び出されているし、あらかたの清掃は終わった後だ。切り裂かれたカーテンなどの痕跡はあるとは言え、アリアの目は違うものを見ているのだとディアナは知っていた。
「おはよぉ、ダナ。ご機嫌よう。生きのいい子たちを回収にきたよぉ」
アリアは上機嫌に足を踏み入れ、両手に持った細い棒をくるくると回しながら部屋を一周する。後半には鼻歌まで歌い始める始末で、ディアナはため息をつかずにはいられなかった。
死霊術──。貴族に連なる血筋の者が生来持ち合わせる魔術の中ではもっとも異質で、忌み嫌われる能力だ。死者の肉体や祖霊を操るのではなく、死により解き放たれた魔素を集め、我がものとして使うだけだと本人は言っている。
アリアの不謹慎な言動は今に始まったことではなかったが、何度聞いても慣れるということはなかった。
「あんたね、いくらなんでも言いようってものがあるでしょう。……何も悪いことをしたわけでもないのに、かわいそうに……」
「そーお。いつものことでしょ、たまたまそこに立っていたのが運の尽きってね。いいんじゃない、これ以上は痛くも怖くもないんだから」
同意を得るつもりがあったわけではないが、あまりに噛み合わないアリアからの回答に、ディアナは口をつぐむしかなかった。
ディアナの母が幽閉された塔は館の北端にあって、入り口はヘディテ夫人の魔術によって封印されていた。
身の回りの世話をする者の出入りがあることは知っている。扉は錆びついてなどいなかったし、足もとにはうっすらと火が灯されている。古い建物ゆえの黴臭さはあったが、鼠が走り回るようなことはなく、清掃は行き届いていた。
とは言え窓は明かり取り程度のものしかなく、幽閉を目的に作られた塔のように思う。伯爵家の過去にあった出来事をつぶさに知っているわけではないが、必要に応じて作られた場ではあるのだろう。
少なくとも一年半前までは、母はユレンベック伯オーリーが暮らす本宅にいた。贅沢は好まず、しかし品のある調度に囲まれた部屋で穏やかな日々を送っていたはずだ。王都魔防隊への随伴を命じられた直後、帰宅してその生活ぶりを見ているのだから確信がある。
それゆえ、任を解かれて戻った生家で母の迎えを受けられなかった時は驚愕した。
本宅の使用人の中には気さくに話せる相手もあったから、母が別宅にいることまではすぐに分かった。しかし別宅での母の生活については誰一人知る者はなく、母に会う方法を模索する中、夫人から呼び出しを受け、別宅の出入りを許された。そのくせ母に会わせるわけにはいかないと言う夫人に頼み込み、自身にできることならなんでもすると申し出た結果が今の関係というわけだ。
「……おはよう、母様。会いに来たよ」
母の居室に入ると同時に声をかける。母からの返事はなかった。
いつものことだ。目を覚ましてはいるもののベッドから身を起こすことはなく、空虚な瞳で虚空を見つめている。
ディアナは女中が用意した朝食入りの籠をベッド脇の小机に置き、背と肩を支えて母を起き上がらせると、背もたれ代わりに手近の寝具を積み上げた。姿勢の安定を確認してから籠のふたを開け、陶器製のポットを両手で包んで中身を温める。
実戦に役立つほどの魔術の才能には恵まれなかったが、これくらいの能力ならばディアナには備わっていた。異母弟妹と比べれば誰よりも弱い力だ。それでも、母に温かい飲み物を届けられることはうれしく思う。
紅茶を含ませ、柔らかくしたパンを匙で口もとに運ぶ。母は遠い目をしたままではあったが、拒絶することはなく唇を開き、咀嚼して飲み下す。
ここに至るまでにいったい何があったのか、食事をすることすらも忘れてしまった母との、悲しくも穏やかなひと時だった。
食事の締めにはすり下ろしの果汁を丁寧にひと匙ずつ口に含ませ、持ち込んだ食器類はすべて籠に戻す。
そのあとには最近気に入りの詩集を取り出し、うちの何編かを読んで聞かせた。なんの反応もなかったが、母の所在さえ分からなかった時に比べれば、こうしてそばにいられるだけでもましだと感じていた。
本当なら毎日だって会いに来たい、ずっとそばにいたいと思う。そのたびに夫人の夜の相手をしなくてはならないと思うと身が持たないような気はするし、何より父の許しを得ることができないのだが。
少なくとも十五年間は本宅に住んでいたはずの母が、今はなぜ夫人の管理下にあるのか──。
それに関しては父も上級の使用人たちも、また夫人も何も語らない。
パチ、パチチ、と中空に火の弾ける音を聞いて、ディアナははっと顔を上げた。小指の先よりも小さな火花が母を取り囲むように弾けている。母の血色の悪い肌にはいつしか蛇の鱗のような紋様が浮かび上がっていた。
周囲の火花を目視でとらえ、指先から放った小さな水球でひとつひとつ消していく。
「──母様」
呼びかけると、頬にまで浮かび上がった紋様の先の瞳が動いてディアナをとらえた。
「あら……ダナ。来ていたの」
母のそばにいると、時折こういうことがある。この紋様が浮かび上がった時だけ母は正気に返るようだった。
「……うん。今日は天気がいいから野駆けをしようと思って、その前に立ち寄ったんだ」
「あら、いいのね。それで男の子みたいな恰好で。……ふふ、よく似合ってる」
そうして穏やかに笑んだかと思えば、母は顔をしかめ、鋭い痛みをこらえるように背を丸めて苦悶の声を上げる。
ディアナは唇を噛みしめ、近くの壁に垂らされた紐を強く引いた。小さな窓の外側や暗い入り口につながる通路にいくつもの鐘の音が響く。
ベッドまで戻り、ディアナは母を抱きしめる。苦痛に震える体を抱きとめることはできても、その肌の上でうごめく蛇の紋様を止める力は、ディアナにはなかった。
やがてやってきた夫人の手当てを受け、母は静かに眠りについた。その寝顔だけでも見つめていたかったが、帰りなさい、と夫人に冷たくあしらわれて部屋を後にする。
母の体に棲む妖魔は、おそらくは父によって植え付けられたものだった。正体の知れない妖魔を植え付けられたのは夫人も同様で、あの縦長の目と先の割れた舌は生来のものではないと聞く。
沈痛な面持ちでディアナは塔を後にし、そのまま別宅を通り抜けて外に出た。
寝物語に聞いた話が真実であるなら、夫人が妖魔を植え付けられたのは長男を亡くし、別居した後のことだ。愛人を囲って好き勝手に暮らす夫人への罰だったのか、他の意図があったのかは分からない。その後に産んだアリアに死霊術の素養があったのは、その妖魔の影響ではないのかと言う者もある。
母に植え付けられたのが同じ種の妖魔なのか、また植え付けられた時期がいつなのかといったことは分からない。発現したのが最近というだけで、ディアナを身ごもる前に植え付けられていた可能性もある。
──いっそそうだったら、アリアのように魔障を請け負って産まれたかったな。
暗い思いに目を伏せ、瞬き、吹き荒れる春先の風に誘われて視界を巡らせる。
服装を誤魔化すために野駆けをするなどと言ってはみたものの、とてもそんな気分にはなれなかった。かと言って本宅に戻る気にもなれず、厩へ向かう気にもなれず、敷地内の草原をあてもなく歩く。
敷地の一角にある植物園にアリアの姿を見つけて、ディアナはふらりと足を向けた。
いくつにも区画を仕切った植物園では、触れるだけで肌がただれるほどの強い毒草から流行り病、感冒に効果のある薬草まで、さまざまな種類の植物が育てられている。
アリアはその中で植物の手入れか最終をしているのだろうと最初は思ったが、近づくごとに目をそらせば、人の手が入った管理区域ではない場所で目当ての植物を引っこ抜こうとしているようだった。よほど根が頑丈なのか、渾身の力で引っ張っても抜けないようで、手を放して額をぬぐっては再び植物に手をかける。
そのうちにディアナに気づいたらしく、アリアは土に汚れた両手を大きく振った。
ディアナが手を振り返すと、アリアは何か思いついたように小首を傾げ、ディアナに向かって何かを放る。次いでアリアが両手の指で地面を示すので、得心がいったディアナはアリアが放ったらしい何かを中空で受け止めた。
ディアナの目に映ることはない「何か」はおそらく死霊たちから抽出された魔素だ。目には見えないが、なんとなくそこに何かがある気がする、という程度の気配なら分かる。
これらは、ディアナ以外の血族の目には映るのかもしれない。アリアから預かったそれの周囲にかざした手を一周させた後、ディアナは足もとの大地に勢いよく押し込んだ。そのまま両手で地に押さえつける。足首ほどの高さの草葉がそよぐ風に揺れ、やがてディアナの意図した方向に向けてかすかな揺れが大地の中を走りだした。
手を放し、視界を上げてアリアを見る。地中の振動はそれより早く伝わったようで、アリアの周辺に向けて波状に広がった揺れで土くれや小石が躍り、急速に水分を失ってさらさらの砂へと変じていく。
その中央にしゃがみ込んでいたアリアが突然、支えを失ったようにふらつき、そのまま尻餅をついた。
「あっ──ごめん、やりすぎた」
思わず声をかけるも、アリアは手に持っていた目当ての草を砂上に叩きつけ、不貞腐れて何か喚いている。
ディアナは想定上の範囲に広がって柔らかくなった砂を踏みつけ、アリアに近づいた。
ディアナは血族の中で最弱の能力しかないと言われているし、自分でもそう思っている。しかし、アリアの持つ死霊の力を借りると、いつもこう──想定の数倍の効力を発揮してしまって、その制御も効かないのだった。
このことを知っているのはディアナ自身とアリア、そして王都魔防隊のごく一部の上層部だけだ。伯爵家の血族には何も明かしていない。
「もぉぉぉ。ちょっとだけ、この子の根を抜きやすくしてくれるだけでよかったのにい」
砂はアリアに近づくほど深くなる。座り込んだ太ももの大半までが砂に埋もれた状態でアリアは手近の砂を両手で叩いて喚いていた。
「ごめん、ごめんってば。代わりに何か、あー……採取物の整理くらいは手伝うから」
幼児のように両頬をふくらませるアリアに手を貸し、砂の中から立ち上がらせる。
立ち上がったアリアは服についた砂を両手で払い、それからなんの予告もなしにすいっとディアナの身に体を寄せた。ほとんど背丈の変わらないディアナの耳元に唇を寄せ、小声でささやく。
そのささやきにディアナは目を見開き、アリアの唇が離れた耳のそばに手をやった。アリアは今しがた手にしていた草を拾い上げ、肩越しにちらりとディアナを振り返り、その場にディアナを置いて歩き出す。
ディアナは呆然とした表情で脳裏にアリアのささやきを反芻した。
──かわいそうだから、許してあげる。今日か明日、誰かが死ぬよ。
こと、人の生死に関してアリアの予言は外れたことがない。本人が言うには、生身の人間かペットと同様に接するほど死霊たちを身近に感じているというから、その動向を察することもできるのかもしれない。
誰が、とはアリアは口にしなかった。だが、かわいそうだから許してあげると言った。
急速に膨れ上がった嫌な予感に追われるようにアリアは別宅へと駆け戻った。
予告もなく、普段とは異なる時間帯のディアナの来訪に別宅の女中たちは動揺も困惑も隠せないようだった。丁重に扱わなくてはならない伯爵一家の者とは言え、別宅の主は夫人で、ディアナはいまやその愛人のようなものだ。
夫人の気分ひとつで命さえ危うい彼女たちが、夫人に対して自由に話しかけることができるはずもない。
逡巡の末、ディアナは強引に押し通ることにした。夫人の風刃の矛先が彼女たちを向くことがないよう祈りながら。
追いかけてきた勇気ある女中を何度となく振り払い、夫人がいるであろう場所を探して別宅内を足早に駆ける。寝室や食堂、書斎は無論のこと、応接間にも客間にもその姿はなかった。
まさか、と最後に思い至り、北の塔に足を向ける。今日の母の発作を沈めたのは夫人だ。そのまま塔で見守っているかもしれないと、なぜすぐに思い至らなかったのだろうと思った。
普段の母の世話にしてもそうだ。入り口を夫人自身の魔術で閉ざしているのに、夫人がいちいち女中たちに鍵を貸すとは思えない。
嫌な汗が流れるのを感じながら塔の前にたどり着くと、ちょうど夫人が出てきたところだった。
「……あら、どうしたのかしら。帰りなさいと言ったはずよ」
昼間であっても細長い夫人の瞳孔には、何かを見透かされているような気がする。
「いえ、あの……──母が気になって」
アリアの予言など口にできるはずもなく、絞り出すようにディアナは言った。
「あの子ならよく寝ているし、あなたにできることなど何もないわ」
ディアナの真正面に歩み寄り、夫人は少し腰を折ってディアナの肩口に唇を寄せる。ふっ、と耳下に吹きかけられた吐息にディアナは思わず身をすくめた。少しばかり冷えた夫人の手がディアナの頬を包み、その指先は耳珠をくすぐる。
「……愛しているわ、可愛い子」
ディアナの耳もとでささやくと夫人は身を離し、するりとディアナの脇を通り抜けていった。
ディアナはその背を見送り、今しがた触れられたばかりの両方の耳を抑える。母へとつながる扉に手をかけたが、案の定押しても引いても扉は動かなかった。
抱擁の中に、愛撫の合間に愛をささやかれたことは一度や二度ではない。そのたびに抱いた違和感がここでもまた首をもたげる。
夫人はなぜ、なんのために母を塔に閉じ込めて──いや、住まわせているのか。
日がな一日ベッドに横たわっている母が塔を出られるはずなどない。幽閉されているとばかり思ってきたが、あるいは母は守られているのではないのか。もしそうであるとすれば、相手は父をおいて他にない。
ディアナにはできることなど何もないといった夫人の言葉を信じて、アリアの予言がこの時ばかりは的外れであることを願って、今は塔の前を離れるしかなかった。
気が塞いでいたせいだろうか、その日は涼しい夜だというのに寝苦しく、ディアナは部屋を抜け出して夜風に当たっていた。
視界には別宅の北壁が収まり、その向こうには母の住まう塔がある。
二日連続でも夫人のもとを訪れておけばよかったか、しかし日々の生活の報告を父に上げるたび、父は別宅を訪れることに対してあからさまな嫌悪を示すし──そんな父に対する忖度を選んだのは自分だ。伯爵家の血縁でさえないアリアに比べれば、これでもまだ厚遇されている方だという自覚もある。陰気臭い娘と呼ばれ、実の母である夫人の普段の生活圏から遠ざけられているアリアなど、世話役の女中はいるらしいが、ディアナ以外にはほとんど口を利く相手もいないと聞いていた。
女のくせにと渋い顔はされても剣技をはじめとする武芸一般や学問には師をつけてもらえたし、衣食住の不便もない。今のところは縁談を持ち掛けられてもいないし──何しろ才能がないことで知られているディアナのことだから、その血縁を求めての縁談など持ち上がろうはずもないのだが。
母が発作を起こした時には鳴らすようにと言われた鐘の音は、風向きによってはこの場所までも届くはずだ。あの鐘の音は外からはどう聞こえるのだろう、いや、聞こえる時はよい知らせではないのだから聞きたくはない。そんなことを考えながらぼんやりしていたディアナは、ふと、塔の周りがやけに暗いようだと気が付いた。
視線だけで塔周辺の空を見回せば、そこには無数の星々が瞬いている。月の光もある。それなのに塔の周辺だけが光を通さない闇夜に包まれたように沈み込んで見える。
身を乗り出し、目を凝らすうちに、闇色の蛇の形をした大蛇が塔に巻き付いているように見えてきた。それがうごめくたびに塔の外壁や夜空の一部が隠れ、その境界は不安定に揺らぐ。一人ではろくな能力もないとされるディアナの目にも映るほどの妖のもの。
やがてそれの頭が明かり取りの窓を突き止め、巨大な体が吸い込まれる煙のように塔の中へと消えた時、ディアナは崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまった。
これまで深夜に本宅を抜け出したことなどないが、途中で誰かに出会ったとしても、たとえそれが歩哨であっても主人一家の行く手を阻むようなことはなかっただろう。
そこまで深く考えてのことではなかったが、重い体を引きずるようにして姿勢を変え、立ち上がると、ディアナは通用口に向かった。玄関よりは人に会う可能性が低いだろうと思ったというわけですらなく、より慣れた方向へ向かっただけだった。
外出着ではないディアナの姿を見た若い歩哨はぎょっとしたようだったが、声をかけられることさえなかった。浅い室内履きのままだったので足は草露に濡れ、入り込んだ細かい土は不快な音を立てたが無視した。たどり着いた別宅の入り口は固く閉ざされ、叩いても呼び鈴を鳴らしても、人が出てくる気配はなかった。
翌朝、ディアナの母ジュイの死は、朝晩二回の主への報告ごとの一部として淡々と告げられただけだった。
報告役となった家令に表情はなく、報告を受ける父の表情にも変化は見られなかった。夜通し別宅の入り口を離れることができなかったディアナは伝令役の歩哨の後ろから父を見ていて、あたしは夢を見ているのかもしれないと思った。
けれど時は確実に歩を進め、夜は明けていた。冷静沈着な家令の指示を受けた使用人は別宅の出来事はすべて夫人に任せるようにとの命令を伝え、葬儀は夫人の指示によって行われることになった。
ディアナの参列を止める者はなかったが、他には誰一人として本宅側からの参列はなかった。亡骸となった母の肌には首筋から頬、頬から額に巻き付くように蛇の文様が浮かび上がり、いつからその体に棲みついていたとも知れない妖魔の存在を感じさせていた。
ディアナには分からなかった。葬儀とはこんな程度のものなのか。妾とは言え仮にも伯爵の子を産んでいても、その子が能なしであればこのような扱いを受けるのか。近親の葬儀に参列した経験などなかったが、少なくとも領内で偶然に見かけた葬送の列には親族らしい者を筆頭に悼み嘆く人が連なっていた。
本妻である夫人が取り仕切るというのも、いくら主命であってもおかしなことだ。そう思いはしても、いつにも増して冷たい表情を保ったままの夫人に話しかける勇気はなかった。結局のところ、母の身に何があったのかを語ってくれる者は誰もおらず、そしてディアナには時間もなかった。
敷地の端、領地の外を見下ろす墓地に母は収められる。伯爵家に伝わる代々の者が眠る墓ではなく、母の生まれ故郷を向いた方角──おそらくはこの場所だけが夫人に許された場所なのだろうと思った。
夫人と夫人に連れられた女中たちが去った後の丘に残ったディアナに、すぐ隣にたたずんでいたアリアがそっと耳打ちする。
──都に手紙を出すよ。
ディアナは目を細め、守る者もない墓標をしばらくの間見つめ、うん、と小さくうなずいた。
母の死に関して父から何か声をかけられることはなく、日々は何も変わりなくただ過ぎていくかのように思われた。外出する気にもなれず、同席を求められる食事時以外の時間をディアナは部屋に引きこもって過ごした。
気の重い食事の席に変化があったのは、葬儀からわずか六日後のことだ。
直系の人間だけ、つまりユレンベック伯オーリーとディアナだけが座す食事の席において、ディアナは唐突に遠戚との縁談を命じられた。王都を挟んで反対側の東北、三代前に伯爵家から嫁いだ者がある辺境領家の三男が相手だった。
この血筋に生まれ、寄宿学校を卒業した以上、いつかは告げられると分かっていたことだ。この国では騎士団か王都魔防隊への所属を命じられない限り、同期生の多くも一、二年のうちには婚姻を結ぶ。
夫人も同じようにして嫁いだはずだ。母の場合は貴族に連なると言っても外戚にあたるので早々に縁談を組まれることもなく、そのうちに伯爵家から白羽の矢が立ったのだと聞いている。
「……はい」
食事の手を止めたディアナが従順にうなずくと、父と家令は小声で一言二言を交わし、次にディアナを向いた。
「喪明けを待つ必要などないので、半月のうちには発つように。持参品はこちらで見繕う」
「えっ」
ディアナは思わず声を上げた。
身分はなくとも実母の死となれば、長ければ一年にわたって喪に服すことがあるほどだ。早々に縁談を告げられることは分かっていたが、わずか半月で発つように言われるなどとは思っていなかった。
「で──でも。せめて二月後には弟たちが寄宿舎から戻ります。あの子たちへの挨拶くらいは……」
「挨拶?」
鼻で笑い飛ばされ、ディアナは押し黙った。
命じられた行く先は名こそ聞いたことはあるが、辺境の小さな一家だ。ディアナ自身は称号に価値など感じてはいないが、そうではないはずの父が平然とこの話を受け入れたことも意外だった。直接に血を継いだところで能力がない自分には、その程度の価値しかないということなのだろう。
「どうせたいした話でもないが、貴様程度には似合いであろうから受けただけのこと。万が一にも才ある子を産めたなら養子として引き取ってやらんでもない」
いつになく口数の多い父は、そこまで言って不意に口を閉ざし、そしてディアナを見据えて、ひどく下品な笑みを浮かべた。
ぞっ、と背筋を走り抜けた感触にディアナは思わず身をすくめる。
「ああ……あぁ、なるほど。あれへの挨拶くらいならば好きにすませればよい。ずいぶんと仲良くしていたようだから」
それは喜怒哀楽でさえほとんど表に出したことのない男の、初めて見る表情だった。あまりの衝撃に声さえ失った娘を置いて当主は席を立つ。
実の娘であろうともディアナはあの男にとっての一人の女だったのだと理解する頃には、手にしていたフォークは床に転がり落ちていた。
戸惑う女中を押し切って尋ねた先で、夫人は意外にも落ち着き払ってディアナを迎え入れた。首もとまで詰まった漆黒のドレスを身にまとった夫人の表情はこの日も冷たかった。
母の埋葬を取り仕切ってくれたことに礼のひとつも言いたかったが、冷たい表情にディアナは臆する。
「──用件は」
必要外のことはすべて拒む声の硬さに、ディアナは嘆息も吞み込んで父からの命を伝えた。見る間に夫人の表情は変わり、大きく見開いた目の中の瞳孔が揺れる。次いで浮かべた明らかな憤怒にディアナは思わず身構えたが、周囲に風刃が吹き荒れるようなことはなかった。
夫人はいつになくカツカツと踵の音を立てて歩き出し、通りすがりにディアナの腕をつかんで引っ張る。そうして強引に本宅まで連れて行かれた道すがら、夫人は夫に対する数々の呪詛を口汚く吐き捨てた。よりよい血族だけを残すための、不要物は軽々に外部へと追いやる数々の言動。血族に与えられた役割であろうと、十分な期間さえも与えられず振り回されることへの怒り、そして人を人とも思わぬ非道な扱い──。
中でも夫人らの身体にまで正体の知れぬものを憑りつかせた狂気は、遠く離れた王都でさえ白眼視されていた。そのことをディアナは口にこそしなかったが、夫人たちがなんとも思っていなかったはずもない。
ましてこの怒りの契機がディアナのためのものならば、これからの計画を思って胸が痛んだ。
王都までの手紙の往復に必要な期間が五日から六日。以降、目的の二人を引き合わせることができたなら、その時こそが密命を果たす時だと決めていた。
本宅の門をくぐる直前、あらかじめ預かっていた魔素の固まりに爪先を弾いて作った摩擦を乗せ、背後へと放っておく。摩擦は風を受けてさらに大きくなり、いずれ雷光となって必要な者に知らせを届けるはずだ。
父のいる書斎にまでたどり着くと、夫人は制止に入った使用人たちを風刃で弾き飛ばして踏み込んだ。
「なんの騒ぎか。……騒々しい」
二人が顔を合わせるのは何年ぶりのことだろう。顔も合わせないほどの不仲とは言え、父にとっての夫人は存在を無視できるほどの相手ではないらしい。
「もう我慢がならないわ。縁談にこそ反対はしないけれど、せめて十分な準備期間は作っていただきます」
夫人は居丈高に言い放ち、書棚の前で肩越しに振り返った夫に向けて腕を上げた。細身の黒衣の袖口からは黒檀色の蛇が首を伸ばしていた。
話し合うつもりすらなく、力づくでも主張を通そうとしていることが明らかな姿勢を見、ユレンベック伯オーリーの手は剣を仕込んだ杖へと伸びる。
ここが潮時かとディアナは唇を噛みしめ、つかつかと歩み出て夫人を押し寄せ、指先に練り上げていた水球を放った。
「──ヘディテ義母様。その責は……あたしが」
驚愕に目を見開いた夫人の視線の、その動きにつれて下りた父の目線の先で、水球は粘度をもって広がり、その鼻先と口周りにべったりとしがみつく。
途端に水膜の向こうにこもった怒号が周囲を震動させ、男は抜き身の剣で斬りかかってきた。ディアナは夫人を突き飛ばし、護身用の短剣で剣を受ける。
最期の一息さえ満足に吸いきることができなかっただろう男の一撃は、あまりにも弱々しかった。
「……どういうことなの」
突き飛ばされ、絨緞に手をついた姿勢から体をひねって尋ねる夫人の声は、さすがに動揺に揺れていた。ディアナは何も応えず片足を引き、夫人の正面に向き合って立つ。
身の周辺に色違いのいくつかの魔素を浮かべたディアナをじっと見つめ、やがて夫人は声を立てて笑い始めた。始まりはひきつったような、中ほどには気でも狂ったのかと思うほどに甲高い、終いには吸気もできずにぜいぜいと吐き苦しむような笑いだった。
「……そんなことが……できたなんて」
やがて夫人が絞り出すように言った声に、ディアナは無言で目を細める。
夫人は乱れて落ちた髪をかきあげ、足を引いて絨緞の上にすっと上体を起こした。
「……縁談も虚言なのね。それなら、すべては王都の差し金かしら。そんな力を隠したままで、すばらしいわ……」
掌を上向け、ゆっくりと両手を上げた夫人の表情には、いまや陶酔の色さえある。
「何も応えてくれないのね。──アリア、あなたも」
夫人の目はすうっと横へ滑って、書斎の入り口付近にたたずんでいたアリアをとらえた。そしてディアナへと戻った目には、はっきりとした縦型の瞳孔が揺れている。
「……愛しているわ、二人とも。ふふ……」
ささやくような夫人の声に、ディアナは再び唇を嚙みしめた。
「あなたが愛しているのは──ッ」
「それがいいわ」
ディアナの言葉を打ち切らせ、夫人は音もなく上げた指先で一際明るく輝く火球を示す。
ディアナは顔をゆがめて大きく息を吸った後、一度は目をそらし、夫人に向けてそれを放った。頼りなく中空をさまようように進み来た火球を広げた両手の中に収め、夫人は再びうっとりと蕩けるような笑みを見せる。
「あぁ……素敵。こんなところにあった、あの子の──」
独白めいた声が終わる前に火球は夫人の肌に燃え移り、その縁を舐めるように広がった。最初は高く突き抜けるような女の悲鳴であった声はやがて喉を奥から割るような尋常ならざる叫び声へと変わり、そのうちには野生の動物が荒々しく放つ獰猛な鳴き声のように変化した。
憑りついた相手の魔素を吸い尽くすまでは決して消えることのない炎は、それが人であった頃の姿さえ留めぬほどに変化した黒い塊と化すまで肉を、骨を蹂躙し続けた。
ディアナはただただ無言で、その様をじっと見つめていた。
騒動の声は聞こえていただろうに誰もやってこないことを不思議に思ったディアナが訪ねると、アリアはあっけらかんと自身が手を打ったことを告げた。
「まあ、逃げ出すほどの時間はないかもねぇー」
どこか呑気な口調ながら、ディアナよりも体力で劣るアリアの息はとっくに荒い。
本宅を出、茂る低木の中に身を隠すと、アリアは幹同士の隙間に体を横たえた。
「あー、もう疲れたし走れない。あたしはここまでかな」
息も絶え絶えのアリアの隣に膝をつき、ディアナはその額を手で叩く。
「何言ってるの、一緒に逃げるよ。どうせ王都に出頭したところで、あんたの死霊術は禁忌のもの。──せいぜいが研究動物扱いで、いずれ抹殺されるに決まってる」
夫妻の殺害はもともとは王都から命じられた密命だったが、ディアナには最初から王都へ戻るつもりはなかった。
ぱちくりと目を瞬いてディアナを見つめ、感心したように長く息を吐くと、アリアはその場に身を起こす。
「そっか、そっかぁー。じゃあ、いいね。二人で遠くの国まで逃げちゃおう」
悪戯っぽく笑うとアリアは立ち上がった。
後方の草原に斥候避けの風刃や水膜をいくつも放ち、二人は改めて低木の中を走りだす。
手に手をとっての逃亡劇の行く先は、もはや二人自身にさえ分からなかった。
テーマは「優秀な血統を追い求める一族の悲喜こもごも」、ジャンルは「異世界恋愛」。
X(旧Twitter)で見かけた企画「#血統主義の集い」に乗っかって書いてみました。
最初はまったく別の、シュールなんだかコメディなんだか分からないネタでさくっと書く予定だったんですが、そちらだとジャンル「異世界恋愛」に入るのが難しいな?
……ということに気づいて急ぎネタを練り直し、冒頭の空気感とキャラクターの関係性は案外さっくり仕上がったものの、エアコンが故障中という環境下のため、なかなか落ち着いて執筆を進めることができず……
もともと遅筆なので、じっくり書いていたら数ヶ月はかかる内容だと思いながら、今回は多少粗削りでも脱稿・公開することを目的に頑張ってみました。
好きなジャンルは群像劇、でも恋愛に主眼を置いたものでさえ滅多に書かないのに、なぜか突然爆誕した百合なお話(でも実は、最初のプロットでは主人公は男の子だった)(女の子に変更したとたん、終盤までの流れが一気に決まった)。
とは言うものの、主な関係性が本命とは互いにずれた相手なので……正直、これ誰向けの作品なのか……
とか、新しい扉は思いもかけぬところに転がってるもんですね~とかぼやきながら、今のところは失礼します。
本作はいつかじっくり書き直して、何かの形で再公開しようと思います。