君の首筋を噛みたい
噛みたくてたまらない麗しの首筋。
未だに銘柄の分からない誘惑の匂いは、脳の正常な電子信号を直接乱していく。
時折誰かと会話して口元から漏れる吐息さえ、聞き漏らすことなく耳へと届く。
夏の軽装を着こなした姿は美しい側面の肌が露出されており、柔らかな肉を鋭い八重の歯形をつけたくてたまらなくなる。色白の首筋に痕が残るほど力強く噛みついたらきっと──。
(あかん。また業務中に煩悩が働いてもうた)
ずり落ちた眼鏡を押し上げ、岸は最大限自分が装える【地味で真面目な事務員】として【さも集中していましたよ】という顔で無駄に入力された数字データを消した。
(ほんま噛みとうてしゃあないわ)
くぐもって飄々とした、低く唸る音。振り返りたい衝動を常々痒く軋む歯で食いしばる。
ほしくてたまらない男。健全な公の、それも職場で邪めいた悶々とした感情を抱いているなんて、誰も思いはしないだろう。
沸騰寸前の体温を下げるように、岸は疼く両腕が隠れた袖を捲ろうとシャツのボタンを外した。
「お疲れ様」
爪の先がかつん、と小さくボタンをかすめる。岸の【地味で真面目な事務員】という仮面に、大きな地割れが侵食した。背後に立つ男の存在に落ち着かせようと、息を大きく吸い込む。が、くらむほどの誘惑の匂いが口内から鼻腔へと充満する。
──これ以上揺さぶらんといてや。
「岸?」
一向に返事のない岸を心配する声が、またどろついた欲望を溢れさせた。
この声が欲しい。もっと自分の名前を呼んでほしい。麗しい首筋を噛んで、一生自分のものにしたい。
「……お疲れ様です、谷原さん。少し考え事をしとっただけです。心配はご無用です」
「そう? なら良いけれど。君は根をつめすぎる傾向があるからね。無理はしないように、ね?」
一瞬だけ合わせた岸の瞳の奥で、谷原の微笑みが破裂した。
何事もなかったかのように立ち去る谷原の後ろ姿を見る顔は、【地味で真面目な事務員】ではなく一人の男のものだった。