第3話
ノーストリアによるイルデ市侵攻は連日ニュースを賑わせた。
サウストリアはこれに猛抗議したが奥深くまで冒されていた議会は軍事的な奪還作戦を否決し、あくまでも「話し合いによる平和的解決」を押し出した。
これに抗議する愛国者たちは「危険思想」のレッテルを貼られ、ネットから、社会から隅へ追いやられ発言力を無くす。
やがて「先の大戦終結時、イルデ市はノーストリア領土であった」という捏造された歴史が掘り起こされ、論じられ……そして史実として人々に意識に根付いた。
「イルデの民はみんな何処かに連れ去られたんだ。今のあの街はノーストリア民たちだらけさ」
現在、とあるSNSでそう発言しようものなら多くの石が返ってくる。
「陰謀論者おつ。そんな非現実なことができるかよ。それに、まとめサイトにも50年以上前から北の領土だって書いてあるぞ。これだから情報弱者は……」
「少し調べれば出てくるのにな(笑」
「むしろ南が不法占拠してたんだって」
「南のヤツは被害者意識強過ぎんだよ」
「あの低クオリティなCG信じるやついるんだ」
「証拠持ってこい、証拠をよ(笑」
「むきぃー! これだから暇人どもは!」
狭い室内に女性のヒステリックな叫び声が響く。
彼女は真紅の目を忙しなく動かし、細く白い人差し指でスマートフォンの硝子板を親の仇の如くつつき上げる。
「はー。何やってるの、イリア」
彼女が送信ボタンをタップしようとした次の瞬間。
硝子のように澄んではいるが、どこか疲れた女性の声が入口扉辺りから聞こえてきた。
「げっ……アンジェ」
イリアはビーズクッションに仰向けで寝転がり、スマートフォンを持ち上げてネット口論に明け暮れていたのだが、思わぬ友人の登場で動揺したのか手元が疎かになる。
「あっ」
刹那。
彼女の手が滑り、小型精密機械が硬い床へ垂直落下した。
「あああぁぁぁっ!」
「良い音したわね」
絶叫するイリアに湿った笑い顔のアンジェ。
イリアは目にも止まらぬ速さで長い銀線を流しながら身を起こし、愛機の行く先を見やった。
彼女はその猫耳付きのスマートフォンケースをいたく気に入っており、今回のような不注意でしばしば破損させていた。
「サメ肌太郎6世~っ!」
「彼はその身を呈してスマホを守ったのだ……敬礼」
薄いプラスチックで成型された耳の部分がぽきりと折れ、衝撃を分散したようで幸い本体に影響はないようだ。
それでもイリアはぐすぐすと大粒の涙を流し、長年――いや、数か月連れ添ったサメ肌太郎の死を悼んでいる。
「うっうっ……また毛皮を替えて会いに来てくれるよね……?」
「プラスチックね」
涙を指先で拭うイリアをすかさず小突くアンジェ。
「命あるものは限りあるから美しいんだよね……今までありがとう」
「というか、横になりながらスマホは止めなさいと言ったでしょ? 少し前に一台10万ハイトする端末壊してお叱り受けたばかりなの忘れたの?」
「だいじょーぶ。今度は気を付けるから」
毎度変わらぬ友人にアンジェは「はあ」と大きなため息をはいた。
そして薄紫色に輝くアメシストをきつく引き絞って友人を睨みつける。
「イリア特務大尉。貴女の任務は何ですか?」
「そりゃ、約10年前から急増した魔獣の退治でしょ」
「その他には?」
「近隣住民の皆さんとの交流、国防軍のイメージアップ。ついでに隊員へのオタク文化の継承」
「さらっととんでもないことを言うなぁ!」
アンジェがイリアの頭を平手で叩く。
「……アンジェ少尉、上官であるわたしに手を上げたね?」
「え、急にモード変えるの卑怯じゃない?」
「ふっふっふっ」
イリアは切れ長の目を悪戯っぽく細め、口元を手で覆っては作り笑いをして見せる。
アンジェは一つ年上である23歳のイリア・トリトニアを改めて眺めた。
平均的な身体つきだが絞るところは絞っているグラマラスなボディライン。
雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないくらいの常に笑顔を忘れない美貌。それは同性のアンジェが嫉妬するほどだ。
白銀を押し出したかのような艶やかな銀髪に真紅の目。
近寄りがたい外見とは相反し、本人はのんびり屋で朗らかな為か「灰の魔女」の通り名に似つかわしくなく中高年からの人気が高く、一度商店街を歩けば瞬く間に差し入れで両手が塞がってしまう。
過去の記憶を無くし、愛すらも忘れた少女はそれを埋めるように周囲から愛情をもって接されていた。
「……ま、胸は私の圧勝だけど」
アンジェは強い嫉妬をイリアのなだらかな胸元を見ることで慰める。
「ん、なんかイラっとすること言わなかった?」
「別に」
「それはそうと」
イリアがこほんと咳払いを一つ。
「明日非番でしょ? 買い物付き合ってね」
「そうきたかぁ……彼氏とデートなんだけど」
「エア彼氏のことは忘れなさいって。いいトシした女が一人でデートスポットうろうろしてたら目立つよ」
「……そこまで言うならこちらも言わせてもらうけどね」
防戦一方だったアンジェが反撃に転ずる。
「あんただって彼氏いないじゃない。絵に『好き好きー』とか言っちゃってさ。理想高いままトシ食って寂しさに沈みなさいよ、このオタク!」
「何ぉ~! あなただってその自己主張の強い胸で乳袋作っちゃってさ。巨乳アピールお疲れ様ですぅ」
「これは太って見えないようにするためですー、残念!」
お互い痛いところを突かれて両者は心の傷を負いうずくまっていたが、やがてそれは乾いた笑いへと変わる。
「そんなにオタクかなぁ、わたし」
「そりゃそうでしょ。そんなオタ女にも護衛が必要だし、仕方ないから行ってあげる」
「やった! アンジェ大好き!」
「……やれやれ」
何の警戒もなく懐に飛び込んでくるイリアの頭をアンジェは優しく撫でる。
そして二人は思うのだ。
目の前に居るのが異性ならどんなに良かったのだろうかと。
休日前の緩やかな時間は瞬く間に過ぎていくのだった。