第2話
「おとうさん……」
窓際の幼いイリアはあの日以来帰らぬ父を憂い、呟く。
彼女は厚い雲に覆われた冬空を眺め、ふうと長い息を漏らした。
湿り気を帯びたそれは硝子窓に張り付き、白い層を作りだす。
彼女、彼らを取り巻く世界はすっかり変わってしまったが、それでも陽は昇りそして落ちていく。
人は確かにその地で息をひそめながらも生活し、不安定な状況下でもなお平静を装っていた。
それは代々受け継がれた戦禍の遺伝子か、安逸を貪っていた代償か。
街を行き交う人々には然程動揺の色は見られない。
「私の代だけで三回も巻き込まれてるのよ。慣れたものだわ」
カメラを向けられた年配の女性はどこか憂いを孕んだ笑みを浮かべ、それでも朗らかに語る。
「歴史を見てもこの街は何度も戦いに巻き込まれてきました。しかし、侵略者の支配は長く続きません。きっと近いうちにサウストリアが――」
生真面目そうな男子学生がカメラに向かって熱弁するが、撮影クルーたちは淀んだ目を見合わせるとカメラを下げ「お兄さんさあ」と街頭インタビューに応じていた学生の肩を軽く叩く。
「『面従腹背』って言葉知ってる? 表面だけは服従するように見せかけて、内心では反対することだよ。この街の人間はそうして生き長らえてきたんだ」
「ですが、されるがままに北の横暴を許していては」
クルーの男性に諭され、項垂れる男子学生。
「大丈夫だ。お兄さんの言う通り、北の支配は長く続いた試しがない。今回だってそうさ。その時が来るまで身を潜めておくんだ」
「……はい」
学生は会釈をして離れて行く。
「チーフいいんですか。立場的にあんなこと言っちゃって」
「さぁーてねえ。俺は崖から落ちそうな子羊を止めただけさ」
チーフが大義そうに手を広げ、空を仰いだ。
「ですけどねえ……我々はノーストリア国営放送局の局員なワケじゃないですか。イメージアップに繋がる画を撮ってこいと言われてコレじゃあ上が納得しませんよ」
「いまどきプロパガンダは流行んねぇし、通用しねーっての。ネットもあるしな」
「では、僕たちの役目とは」
カメラマンが重い機材を携え、チーフの元に歩み寄る。
他のスタッフも彼の言葉を待っているかのようだ。
「そんな目で見んなって。さあ、適当に仕事するぞ。ほら次!」
「適当かよ……」
「適当ですか……」
誤魔化すチーフに他のクルーたちはため息をつき、渋々次の通行人を捕まえて上辺だけのインタビューを行うのだった。
「ベルくん、どこまで行ったのかなぁ」
とある日の休憩中。
銀髪の線と深紅の目を持つ少女は暇を持て余していた。
スマートフォンでニュースを見ても此度の侵攻について延々と同じ情報が繰り返されているだけで何の進展もなく退屈だ。
先程まではあの日以来彼女の家で寝泊まりしているベルハルトとテレビゲームに興じていたのだが、飽きた彼は厳戒下の街に独りで飛び出してしまった。
残されたイリアはそれから古来より伝わり、科学技術が進歩した現代でもなお伝承されてきた「魔法」の手解きを母から受けていた。
素質も持って生まれ、研鑽を積み重ねれば神にも匹敵する力となり得る可能性もある。
彼女のトリトニア家は代々濃い魔力の血を受け継がれてきた名家。
高校までは学業と平行して修練を重ね、大学は専門の学部へ通う予定となっている。
一見エリート街道が敷かれているように思われるイリアだが、現時点の評価は平均以下だった。
学業は優秀なものの現代では必須とされる生活魔法や治癒魔法が全く使えず、辛うじて使える攻撃魔法は7年も続けてきたというのに未だに初心者レベルだ。
それでも優秀な魔女だった母は娘に根気よく魔法を教え続けている。
「退屈……」
しかし母の祈りは届かず、その娘イリアが呟いた。
通っていた学校は臨時閉校され通りにはノーストリア兵たちが巡回している。
電気・ガス・水道などのライフラインは生きているが、流通センターの機能が停止し、店先からは足の早いものや嗜好品の類から順番に消えていた。
イリアは好物であるカラス麦のクッキーを食べたいな、と思いつつ椅子の背もたれをぎいぎいといわせて母の帰りを待つ。
すると不意に玄関の呼び鈴が甲高く響き、同時に誰かの足音が無遠慮に上がり込んで来た。
「ベルハルト君、どうしたの? そんなに血相を変えて」
「はあ……はぁ……おばさん、イリア。二人とも早く逃げて!」
イリアが下階の様子を窺っていると、ベルハルトが険しい表情で「イリア!」と階段の下から彼女のほうを見上げていた。
「ベルくん、ちゃんと説明してくれないと分からないよ」
「……魔女狩りだ。御伽噺の中じゃなく、今、この街で女の人が一人残らず北の奴らに連れ去られてる」
イリアには幼馴染の言葉が今一つピンと来なかったが、母は違った。
いつもの柔らかい表情を崩し、目を見開いて「イリア、すぐ荷物を纏めなさい」と地下室に降りながらいつもの口調で言う。
それは耳にしたものを強制的に従わせるような魔力が込められているようで、イリアはブルっと身震いを一つ。自室に舞い戻ると荷解きをしかけていたバッグを再び詰め込んだ。
彼女は先日の避難の時よりも重たく感じるそれを手に普段は「静かに降りなさい」と躾られている木張りの階段を駆け下りる。
「表通りは危険だ。近所の人が逃げ道を確保してくれている。そこまで行くぞ」
「うん、わかった。母様……荷物は?」
母親の手には鞄はなく、いつものゆったりとした普段着姿で静かに居間に向かう。
「私はここに残る。ベルハルト、この子をよろしくね」
「なんでそんなこと言うの? 一緒に逃げようよぉ!」
「お父様が居ない今、私たちの家を誰が守ると言うの? 心配しないで行きなさい」
「でも……」
納得がいかない様子のイリアに母親が跪いて視線を合わせる。
そして彼女の銀の線を優しく撫で「イリア」と精一杯の笑みを浮かべ、赤子をあやすかのように耳元で囁いた。
「いつかお母さんの秘密を知りたいと言ってたわよね。また会えたらその時に話すから、今は行って。ね?」
「でも……」
いつもは聞き分けのいいイリアだが共に過ごす母親には依存しており、一時の別れとはいえ我儘になっていた。
柔らかい頬を千の言葉で膨らませ、ぶすーとそれらを大気中に漏らす。
「イリア、時間がない。おばさんなら心配ないさ。行こうっ」
「でもでもぉ……」
ベルハルトがイリアの手を取っても、彼女はその場を動こうとはしない。
業を煮やした彼が力任せに引っ張ろうとすると、徐にイリアの母親が少年の赤髪に軽く手を置いた。
「小さなこの騎士に精霊の加護あらんことを」
すると熱の塊が彼の頭の先から伝わり、心臓の中心まで降りてきた。
それは冬季を越え、眠っていた生命が芽吹く季節の温かな風。
「おばさん、今のって……?」
彼女は呆然とするベルハルトに何も応えず、彼らの背中を押して「さあ」と送り出す。
「おかあさぁん……」
「イリア、行くぞ」
母親に見送られ、キッチンの奥の勝手口から出て行く小さな二人。
遠ざかる我が娘を母は硝子越しにいつまでも見つめていた。
ベルハルトは裏通りに停車していたトラックにイリアを押し込み、彼を引き上げようとしていた白い手をゆっくりと放した。
「ベルくん……?」
彼は口を固く結んだまま、紅い宝石をじいっと見つめると「イリア、俺はここまでだ」と背中を向ける。
「どうしてっ!? 一緒に逃げるって約束してくれたじゃない!」
「最初から子ども一人分しか空きがなかったんだよ。いつか言ったよな、お前を守るって。今がその時だ」
「嫌! ベルが残るなら私も残るっ!」
「……近いうちにサウストリアの奪還作戦があるらしい。裏でそれを支援するためにレジスタンスを組織するんだってさ。俺もそれに加わっている。この街を解放して、みんなを救って英雄になるんだ」
「何を言っているの、喧嘩弱いくせに!」
「大丈夫だ。いつか迎えに行くから。またな」
ベルハルトは出発時間が過ぎていたにも関わらず、待機してくれていた運転手に深々と頭を下げて「お願いします」と精一杯の声を絞り出す。
運転席が勢いよく閉められ、ディーゼルエンジンが動き出して車体下部のマフラーは黒い燃焼ガスを勢いよく吐き出した。
イリアは遠ざかる幼馴染の名前を叫び、ベルハルトはトラックのほうへ向きなおって片腕を上げようとした次の瞬間。
乾いたような炸裂音が響き、ベルハルトの胸に赤い花が咲いた。
「あれ?」
少年は確かに「それ」を見た。
だが、アスファルトが何かで濡れているだけで花など何処にも存在しない。
胸に異物感をおぼえて上げかけていた手で胸元を拭うと、ぬちゃりとした厭らしい粘着質が付着する。
――俺の血だ。
少年が自らの身に何が起こったのか理解するよりも早く、心臓の鼓動に合わせて大量の血液がごぶり、ごぶりと脈打つように流れ出る。
彼は血の塊を吐き出し、その場に崩れ落ちた。
後方からは規則正しい軍靴の音が聞こえる。
「構え」
ベルハルトは意識が遠のきながらも父から教わった術をなぞるように腰から護身用の小型拳銃を抜き取り、渾身の力を込めて仰向けになってヒトガタに銃口を向ける。
「狙え」
口の端から赤い線が垂れる。
震える手でフロントサイトとリアサイトを一直線にし、照準を先頭を歩く軍服の男性へと合わせる。
「撃て」
静かな裏路地に一発の銃声が響く。
それに連なるように複数の炸裂音が響き、閃光が薄暗くなっていた辺りを照らした。