第1話
その齢僅か10歳の少女は平石を敷き詰めた歩道に横たわっていた。
足が縺れて転倒した訳ではない。
誰かに足を引っかけられたりしたわけではなく、瞬時に意識を失うような病気もない至って普通の少女だ。
目を惹くのは白銀と黄金色を織り交ぜたような明るい頭髪。
鮮血をそのまま映したような深紅の虹彩と相重なり、まるで御伽噺の中に出てくる吸血鬼のようだった。
だが、彼女は可愛らしい外見と大人しく温厚な性格から蝶よ花よと世界から祝福を受けて育った。
そんな未来ある子どもの命がまさに今、潰えようとしている。
「あ……ああ……」
少女がしわがれた声を漏らす。
周囲に助けを求めようとしていたのか、それとも身近に居た「筈」の誰かを呼ぼうとしたのか。
他人を放っておけないお人好しな性格のイルデ市民ならば、誰もが彼女に手を差し伸べただろう。
「平時」であれば。
サウストリア国イルデ市。
大陸を南北に分割する不可視の国境線沿いにその街はあった。
北緯38度線に限りなく近い肥沃な土地はサウストリアの大穀倉地帯の一つで、この大陸だけではなく世界中に穀物類を輸出している。
故に太古の昔より戦争の渦中に巻き込まれ、支配者を幾度となく変えながらも住人同士で助け合いながら生き抜いてきた。
世界の在りようを変えた大戦から数年後。
国際連合主権のもと各国が協議を重ね、国境線の引き直しをしている最中に大陸北部の大国であるノーストリアが突如南に向けて侵攻を開始した。
かの国は「大戦後、南に強制併合された地域の解放」と主張していたが、その認識は戦後処理の混沌で霞んでいた。
公的文書では我が国の領土だという南に対し、北は話し合いに応じず領土の一部に軍隊を駐屯させ実効支配を続けていた。
北は痩せた土地ながらレアメタルやレアアース、天然ガスなどの地下資源に恵まれ、巨万の富を得ており世界各国へのプロモーションは南より一枚上手だった。
平和維持や国際貢献を掲げて設立されたはずの国連は形だけの注意勧告に留まり、覇権主義の北は徐々に侵攻を開始。
サウストリアでは北に買収された融和派の議員たちや市民に紛れた工作員たちが「平和」を唱え世論を味方につけ、反撃や奪還作戦を困難とさせていた。
だが、散々敵の侵攻を許し、辛酸を舐めていたサウストリア国防軍はイルデ市に迫るノーストリア軍に警告の後に攻撃を開始、ごく小規模の小競り合いが始まっていた。
「いいかい、イリア。この前言ったように、お母さんと一緒に列車で逃げるんだ。私は後で合流するから」
「父様、ご武運を」
信頼の表れだろうか。言葉とは裏腹に父と娘が軽い抱擁をする。
しかし、イリアと呼ばれた少女の紅い目は不安の色で曇り始めていた。
幼い彼女は彼女なりにそれを父親に悟られまいと気丈に振舞っていたのだが、隣に立つ母親の目は誤魔化せない。
「あなた、無理はしないで」
「分かっている。援軍が来るまでの時間稼ぎだ、心配するな」
父親は娘を抱え込んだまま自らの伴侶と固い契りを結ぶ。
彼は自分の惚れた女神の祝福を受け、妻子に別れを告げて待機していた軍用車両に乗り込んで戦地へと赴く。
「母様……大丈夫でしょうか」
不安そうなイリアが石造りを模したアパートの一階で遠ざかる排気音を耳にしながら母親へそうたずねた。
「大丈夫。私たちも行きましょう」
母親は鈍色に光るアルミニウム製トラベルケースの引手を伸ばし、空いた片方の手でイリアの小さな手を取る。
普段は閑静な住宅地の通りが足早に駆ける避難民たちで騒がしい。
「イリア、おばさん」
誰もが我が身を案じて先を急ぐ中、通りへの階段を降りる二人に少年が立ち止まって声をかけてくる。
「ベルくん」
イリアが幼馴染の名を呼んだ。
彼はパンパンに膨らんだ子ども用の登山リュックを背負い、張りのある声ではあるが顔は青ざめていた。
親の姿は何処にもなく、イリアの母親がそのことについてたずねる。
すると少年は途端に涙声になり「父さんには少し前から出動がかかってたんだけど、母さんの職場と連絡が取れなくて……」と顔を俯かせて言うた。
「一緒に駅まで行きましょう。きっと待ってる筈よ」
イリアの母親はベルハルトに努めて柔らかい声で笑いかけた。
それで彼の不安は幾分か和らいだのか「うん」と鼻をすすりながら返す。
三人は見慣れた風景の非日常な街を歩いていた。
片側二車線の道路にはところどころ放置された車両があり、その間を縫うように人波が進んで行く。
「押さないように落ち着いて避難してください。まだ時間は十分にあります」
交差点には都市迷彩柄の装甲車両が停車しており、その屋根上に立った軍人が拡声器で同じ言葉を何度も繰り返している。
遠くには雷鳴のような音が幾重にも重なり、腹の底を揺るがしている。
道を行く誰しもが余裕のない表情で不安は広く伝播した。
泣き出す赤子、幼児。
それをなだめる者、叱りつける者。
ここも長い間安全ではない。そのような空気が張り詰める中、市民たちは理性をぎりぎりのところで保っていた。
刹那。
彼らの脆い心を引き裂かんとばかりに轟音が鳴り響き、黒い影が低空を過った。
「ノーストリア軍機だ!」
群衆から声があがり、彼らは一斉に空を仰いだ。
「航空優勢じゃなかったのか!?」
「見ろ! 何か落としたぞ!」
影から生み出されたものはみるみるうちにその姿を顕わにし、白い傘を開いて地上に降り注ぐ。
それはWAWと呼ばれる人型歩行戦車。
電気信号で自在に伸縮する金属の人工筋肉はエグゾフレームと呼ばれ、人間の筋力を大幅に増幅させながらも繊細な作業が可能なスーツとして大戦後の復興に大いに貢献した。
元々は工事、運搬用の補助スーツを軍事転用し、大型・高出力化したのが現在のWAWだ。
「降りてくるぞ! みんな離れろ!」
濃緑色の森林部迷彩が施されたWAWが着地寸前のところで落下傘を切り離し、機体背面部に取り付けられた推進力を生みだすブースターユニットが火を吹いた。
車体を動かすほどの凄まじい風量、何千度という燃焼ガスが舗装道路を赤く焦がす。
民衆は蜘蛛の子を散らしたかのように退避した後だったのでその時点で負傷者は居なかったが、全長5メートルほどになる鋼の巨体を前にあれだけ騒がしかった場はしんと静まりかえった。
「……班長。逃げますか?」
避難誘導をおこなっていた装甲車の運転手が車体上部で拡声器を持ったまま口を開いていた男性に問いかける。
「ばっか。銃口向けられててどうやって逃げるんだよ」
下から聞こえてくる呑気な声に対し、班長は口の端を折って厚手の軍用ブーツで装甲を蹴りつける。
街の大通りに降下してきたのはノーストリアの3機。
統率のとれた彼らは防御円陣を組むと、外部スピーカーから「聞こえるか、サウストリアの民よ」とノイズ混じりに体温を感じられない声が響く。
「こちらノーストリア第一空挺師団。戦闘は終了し、当市は我々が掌握した。無駄な抵抗は止めることだ」
あまりにも突然の出来事に市民たちは身体と思考を硬直させる。
「ですって、はんちょー」
「エリートさんがこんな地方都市に何の御用かねえ……」
頼りの国防軍は早々に戦意を喪失し、拡声器を屋根に置くと降伏の構えを示した。
それを見届けたかのように北方向から無数の輸送機が飛来し、次々に白い傘を青空へと落としていく。
北軍は「速やかに自宅へ戻り、外出は控えるように」と言い、通りに停車したまま装甲車に巨大な40ミリライフルを押し付けた。
「白旗でも振ったほうがいいんでしょうか」
「お前、今から作る気か? 止めとけ、やめとけ」
屋根に顔を覗かせた運転手の頭を班長は押さえつける。
その日、サウストリア国防軍はイルデ市から撤退し、市は北の支配下に置かれるのだった。