恋愛図書館
大学構内の南東に屹立する地下二階地上七階建ての細長い建物にはいると無論のこと休日であるためだろう、すぐ左手にみえる半円の長椅子の据えられた仕切りのない談話室には男子学生が一人静かに佇むばかりで、常々平安を打ち破るやかましい輩も今日にかぎって見られない。
そう思いなすと共に、何ら忖度もなしに冷徹に省みれば自分もあるいはその一派かもしれないと思い及んで幸敬はにやつきながら自戒の念を抱きかけたものの、エレベーターに乗り込んで普段の癖のままに何心なく薬指で六階のボタンを押すと共に身を翻して姿見へ全身をうつしながら、紺地のスプリングコートにつつまれた凛々しい細身の青年へ満足の一瞥を与えるうちには早くも待ち人の事を思い出して、前仕切りのある机で一人ぽつねんと自分を待ちわびているであろう可憐な恋人を思いやるとたちまち胸が至極柔らかく温かくなってゆくのに、幸敬は最早待ちきれぬままに向き直って数字の進行を見守りながら、ようやく到着してドアがおもむろに開くが早いかタイルカーペットへ足を踏み出した。
清爽な葉をしなやかに折れ垂らす観葉植物の出迎えを経て左に曲がると本棚が整然と立ち並ぶ室内は静粛を極めている。
そのそばを密やかに歩みつつ、幸敬は棚と棚の間から向こうの机の並びへそっと目を走らせるうち、ペンを持って机に俯きかげんのその横顔は流れるつややかな髪に半ば隠れてはいるものの、すっと通った鼻筋にその佇まい、見覚えのある清楚な装いから優月に相違ないと判じてそこへと歩みを運びながら、一度立ち止まって適当に一冊を抜き取りそのまま読むのを装いつつ愛する恋人を横目に差しのぞいていると、ふいに優月はペンを放り出して静かに伸びをしたのち片手に口元を抑えながら小さくあくびをした。
微笑ましいそのさまをなお堪能しようとしたそばから、優月はいきなりこなたを向き、わずかばかり彷徨ったような瞳がぴったり出会うと共にこちらへ気がついてにっこりする。
すぐにでも隣へ来て欲しいとその瞳がありありと語るので、幸敬はすっかり嬉しくなるままに普段のいたずら心を起こす暇もなく、矢庭に書物を閉じてもとに戻すと時を移さず優月のそばへと歩み寄り、傍らの椅子をひいて静かに腰をかけた。
──課題?
──そう。けれどあまり進まなくて。嫌んなっちゃう。
──大変だね。
──そうなの。そしたら幸くんが来た。
──ごめん、邪魔しちゃったかな。
一心に自分へ向けられる恋人のまなざしを観察しながら、必ずしもそうではなかろうと理解しつつ戯れにそのように問うてみると、すぐさま予期した通りに、
──来てくれたの、幸くんが。
──そうだよ。
その返答に優月はにっこり頷き、それから顔をもどして、
──ねえ、今何時かな。
問われて幸敬はおもむろに腕時計へ目を落としてから、黙ったまま返事を待ち設ける鮮やかな鼻梁の細面をぼんやりと見つめるうち、人気のないのを幸いついと身を乗り出して優月の耳のあたりへそっと口を寄せ、
──もう三時だよ。ちょっと出ようか。
問うと共に耳元の髪の毛がかすかにゆれて、香り立つ芳しい熱気に覚えず瞼をとじながら馥郁たる芳香を秘めやかに吸いこむうち、無邪気な優月の指先が机に置きわすれたままの幸敬の手の甲をそっとさすった。
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